二葉あき子を救った数分の遅延列車!もし定刻なら命は?

広島に原爆が投下された1945年8月6日。

その日、二葉あき子さんは二歳の息子に会うため、広島駅から芸備線に乗ろうとしていました。

しかし、定刻7時45分発の列車が“数分遅れていた”ことで、思わぬ運命の分岐点が訪れます。

もし列車が時間通りに出ていたら、二葉さんは広島駅に取り残されていたかもしれません。

そして、その後の歌手人生は存在しなかった可能性すらあるのです。

目次

二葉あき子を救った数分の遅延とは?

二葉あき子さんは、前日の5日まで、1週間通しで街頭慰問を行っていました。

最終日の5日は呉の街を回りました。

呉は数日間夜間空襲で焼け野原が広がっていましたが、その中をトラックで移動し、「みなさん、元気を出してがんばりましょう。日本は最後には必ず勝ちます!」とメガホンで呼びかけ、アコーディオンの伴奏で歌を歌ったそうです。

しかしながら焼け出された人々はどの顔も放心したようにぼんやりとしており、もうだれも戦争に勝てるとは思っていなかったということです。

二葉さんも著書「人生のプラットホーム」の中で「いくら歌っても、死んだ子が戻り、B29 がこなくなるわけではない」と当時を振り返っています。

8月5日の夜は、広島にある母親の実家(二葉の里)に宿泊し、翌日は二歳の息子さんを預けている父親の実家のある広島県旧布野村へ向かうため、二葉さんは広島駅から芸備線に乗ろうとしていました。

本来なら7時45分発の列車に間に合わないはずでしたが、列車が数分遅れていたため、偶然にも乗車できたといいます。

この“わずかな遅延”が、二葉さんの命を救うことになります。

もし定刻通りに発車していれば、二葉さんは広島駅で次の列車を待つか、母方の実家に戻るしかありませんでした。

どちらも壊滅的な被害を受けており、生存の可能性は極めて低かったと考えられています。

二葉あき子が体験した中山トンネルでの被爆!

列車が発車して間もなく、芸備線は中山トンネルへ入りました。

その瞬間、「ドーン!」という重く硬い衝撃音が車内を貫き、両耳を平手打ちされたような痛みが走ったといいます。

突然息が詰まり、心臓の鼓動が耳に響き、全身が硬直した――。

これは原爆の衝撃波がトンネル内に伝わったもので、二葉さんはその場で被爆したことになります。

しかし、トンネルが熱線と爆風を遮ったため、命を落とさずに済んだのです。

二葉あき子がもし駅に残っていたらどうなっていたか?

もし列車が遅れていなければ、二葉さんは広島駅に取り残されていました。

広島駅は爆心地から約1.8km。

駅舎は構造を残して焼け落ち、多くの人が犠牲になりました。

また、二葉さんが引き返す可能性があった母方の実家(広島市二葉の里:二葉さんの芸名の由来となった地名)も甚大な被害を受けています。

義理の妹さん(いとこ)は鶴羽神社の境内におり、背中に大やけどを負い瀕死の状態だったといいます。

つまり、二葉さんがどちらにいても、命を落としていた可能性が極めて高いのです。

まとめ

二葉あき子さんが原爆から生還できたのは、ほんの数分の列車遅延という偶然でした。

もし定刻通りに発車していれば、広島駅か二葉の里で被爆し、戦後の歌手人生は存在しなかったかもしれません。

この“運命の分岐点”があったからこそ、「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などの名曲が生まれました。

二葉さんの体験は、戦争の悲劇と命の尊さを、今を生きる私たちに強く伝えてくれます。

わずかな偶然が人生を変える――その事実を、次の世代にも語り継いでいきたいものです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA

目次