二葉あき子さんが語った“あの日”の記憶は、今も多くの人の胸を締めつけます。
生き残った二歳の息子を抱きしめ、力が抜けて崩れ落ちた瞬間。
その裏には、列車の中で交わされた母子と老人の切ない会話がありました。
そして戦後、彼女は亡くなった人々への祈りを歌に込めます。
今回は、二葉あき子さんの被爆体験と「鎮魂歌」に宿る想いを紐解きます。
二葉あき子は数分の遅延で運命が変わった!

二葉あき子さんは1945年8月6日、広島駅から芸備線に乗車しようとしていました。
その列車は10分か12~13分遅延していたため、偶然にも乗ることができたと自伝に記されています。
列車が中山トンネルに入った瞬間、広島市上空で原爆が炸裂しました。
トンネルが熱線と爆風を遮り、乗客たちは九死に一生を得たのです。
もし定刻どおりの運行であれば、彼女は広島駅のホームに立っていた可能性が高く、運命は大きく変わっていたと考えられます。
二葉あき子が見た母子と老人の会話が胸を刺す!

広島駅からの列車で前の座席に座っていた若い母親と竹の杖を持った老人との会話が耳に入ってきました。
老人は若い母親に「あんたの赤ん坊は?」と尋ねると、「おばあちゃんが、孫はうちが守りしちょるけん、あんた一人で行ってきんさい、いうて」と語っていたといいます。
二葉さんはその会話を聞きながら、胸が締めつけられる思いだったと記しています。
外に広がるのは、ふるさと広島が一瞬で消えた光景。
二葉さんは生涯忘れられなかったと語っています。
二葉あき子は“生き残った息子”を抱いて崩れ落ちた!

列車は途中駅で乗客を降ろし、二葉さんは息子と家族が待つ布野村に到着しました。
そこで二歳の息子と再会し、無事を確認した瞬間、張りつめていた緊張が一気にほどけました。
彼女は息子を強く抱きしめたまま、その場に崩れ落ちて失神したと自伝に記されています。
広島の壊滅を知った衝撃、車内で出会った母子や老人の安否への思い、そして息子が生きていた安堵。
そのすべてが重なり、身体が耐えきれなくなったのだと感じられます。
まとめ
二葉あき子さんは、被爆体験を多く語ることはありませんでしたが、自伝には深い記憶が刻まれています。
生き残った息子を抱いて崩れ落ちた瞬間、そして車内で出会った人々への祈り。
その想いは戦後の「フランチェスカの鐘」にも受け継がれ、亡くなった人々への鎮魂歌として歌い継がれています。



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