二葉あき子さんは特攻隊員の前で「荒城の月」を歌いました。
白いマフラーをなびかせた青年たちは出撃の前に静かに黙礼しました。
そして滑走路へ向かい、二度と戻らない死出の旅に向かいました。
なぜ彼らは軍歌ではなく「荒城の月」を求めたのでしょうか。
そして二葉あき子さんが戦後も語り続けた“痛み”とは何だったのでしょうか。
今回はそのあたりを掘り下げます。
二葉あき子は藝大出身のエリート歌手だった!

二葉あき子さんは1915年、広島市に生まれました。
東京音楽学校(現・東京藝術大学)師範科で学び、1936年にデビューしました。
戦前は「古き花園」「なつかしの歌声」、戦後は「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」など多くの名曲を残しています。
彼女の歌声は、音楽学校師範科出身ならではの格調高さと透明感が特徴でした。
一方で、戦時中、レコード会社は内務省や内閣直属の情報局の指導を受け、戦意高揚・国威発揚を目的とした楽曲を制作、歌手は「国民の士気を鼓舞する文化人」として位置づけられ、出演・録音の自由はほぼありませんでした。
そのような状況の中、二葉さんは「父よあなたは強かった」(1939年)「空の船長」(1940年)「海の進軍」(1941年)「感激の合唱」「壮烈!特別攻撃隊」(1942年)など多数の戦時歌謡を吹き込まざるを得ませんでした。
二葉あき子は特攻隊員の前で荒城の月を歌った!

浜松陸軍航空隊基地は、特攻隊員が訓練し、次々と出撃していく場所でした。
その日、二葉あき子は軍歌ではなく「荒城の月」を歌ったと語っています。
「荒城の月」は滝廉太郎の名曲で、静かで哀しみを帯びた旋律が特徴です。
死を目前にした若者たちが、最後に聴きたいと願ったのは軍歌ではなく心を整える歌だったのかもしれません。
歌の途中、数人のあどけない顔をした兵士が静かに席を立ち、外へ出ていきました。
数分後、彼らは飛行服に着替え、白いマフラーを巻いて戻ってきました。
そして舞台の二葉あき子さんに黙礼し、そのまま滑走路へ向かって走り出しました。
戦闘機は豆粒のように小さくなり、雲の中へ消えていきました。
彼らは帰還を前提としない特攻隊員だったのです。
二葉あき子が抱え続けた怒りと痛みとは?

二葉あき子さんは戦後、一度も軍歌を歌いませんでした。
その理由について、彼女は自伝でこう語っています。
「あの日、軍歌を好んだとは思えない若者たちがいた」
「酒場で軍歌を手拍子で歌う中年男性を見ると、無性に腹立たしくなる」
特攻隊員たちは、死を前にして軍歌を求めていませんでした。
彼らは静かに、真剣に、最後の歌をひと言も逃さないよう聴いていたのです。
だからこそ、戦後の軽々しい軍歌の扱われ方に、二葉あき子は深い痛みを覚えました。
彼女にとって軍歌は、“死にゆく若者の象徴”だったのです。
まとめ
「白いマフラーの青年たちはどこへ?」という問いの答えは明らかです。
彼らは二葉あき子の歌を胸に刻み、二度と戻らない空へ飛び立っていきました。
二葉あき子さんの証言は、戦争を美化するものではありません。
むしろ、特攻隊員の静かな覚悟と命の重さを伝える貴重な記録です。
なぜ彼らは「荒城の月」を選んだのでしょうか。
なぜ二葉あき子さんは軍歌を歌わなかったのでしょうか。
その答えは、彼女が見送った青年たちの姿にすべて込められています。





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