藤山一郎の南方慰問の船上で魚雷が直撃!命が震えた瞬間とは?

昭和十八年、戦局が急速に悪化する中、藤山一郎は南方慰問団の団長として危険な航路へと向かいました。

その旅路で彼を待ち受けていたのは、想像を絶する緊迫した出来事でした。

台湾・高雄港への入港直前、突如として船体を揺らす爆音が響き渡ります。

船上に走る恐怖、そして目の前に現れた“死の影”。

藤山一郎が語った「命が震えた瞬間」を、史実に基づき紐解きます。

目次

藤山一郎が南方慰問を決意した理由とは?

藤山一郎は、日中戦争から続く長い戦時下で、「自分の歌で祖国のために働きたい」という強い思いを抱いていました。

本来はヨーロッパで音楽を学ぶ夢を持っていましたが、第二次世界大戦の勃発によりその道は閉ざされます。

そんな中、読売新聞が海軍の要請を受けて「南方慰問団」を結成。

藤山一郎は、これを 「二度とない機会」 と捉え、既に決まっていた仕事をキャンセルして参加を決意します。

慰問団には藤山新世紀楽団のメンバー、歌手、浪曲師、漫談家、奇術師など約二十名が同行し、全員が軍属として扱われました。

彼らは昭和十八年二月十一日、横浜港から「鎌倉丸」に乗り込み、南方へ向けて出航します。

当時の日本は、ミッドウェー海戦で空母四隻を失い、ガダルカナル撤退、アッツ島玉砕など、戦局が急速に悪化していた時期でした。

しかし、軍部は真相を国民に知らせず、藤山一郎もその実態を知らないまま危険な航路へ向かうことになります

藤山一郎が体験した「船上で魚雷直撃」の恐怖とは!

慰問団を乗せた「鎌倉丸」は、横浜を出て順調に南下していましたが、四日目に異変が起こります。

太陽の位置が変わり、船が北へ向かっていることが判明。

その後、大阪港・呉港へ寄港し、士官候補生らが乗船して再び南方へ向かいます。

そして台湾・高雄港へ入港しようとしたその瞬間── 「ど、どどどーん!」 船体後部に巨大な水柱が上がり、甲板が激しく揺れました。

乗組員の叫び声が響きます。 「雷跡!右舷に発見!」

藤山一郎が見たのは、港内側からまっすぐ自分たちの船へ向かってくる魚雷の航跡。

彼は思わず甲板に身を伏せ、「これはやられる!」と覚悟したと語っています。

幸運にも魚雷は不発

しかし、敵潜水艦が 港内に潜入していた という事実は、彼らに戦局の逼迫を強烈に突きつけました。

この出来事は慰問団の士気を大きく揺さぶり、団員の三原は爆風で吹き飛ばされ弱気になります。

藤山一郎は団長として、 「僕たちはラッキーボーイなんだ。生きていることが証拠だ」 と励まし、慰問の使命を果たす決意を固めます。

藤山一郎が南方で見た現実と慰問の意義とは?

高雄での魚雷事件後、慰問団はマニラを経てボルネオ島のバリックパパンへ到着します。

ここは石油タンクが林立する重要基地で、海軍司令部は彼らの到着を心待ちにしていました。

慰問は連日続き、バリックパパン、サマリング、タラカン、マカッサル、ケンダリーなど広大な地域を巡ります。

各地の兵士たちは、 「戦場で歌を聴けるなんて夢のようだ」 と涙を流して喜びました。

特設ステージは兵士たちが汗を流して作ったもので、「軍艦マーチ」「海の進軍」などの軍歌が演奏されると、会場は大きな拍手と歓声に包まれました。

そして、軍歌の演奏が終わると、次に藤山自身のヒット流行歌「東京ラプソディー」「青い背広で」などが演奏されました。

水兵の中には歌詞を聴きながら目に涙をためる者、聴き耳をたててメロディーに合わせて手拍子を打つ者、中には興奮して一緒に歌い出す者がおり、その姿をみながら、藤山は「この慰問団に加わって良かった」と思ったと当時を振り返っています。

一方で、南方は雨季で豪雨が続き、湿気と高温で体調管理も困難。

それでも藤山一郎は、「自分の歌で兵士の心を支えたい」 という信念を持ち続け、慰問団を率いて過酷な日程をこなしていきます。

まとめ

  • 藤山一郎は「歌で祖国に尽くす」思いから南方慰問を決意しました。
  • 慰問団は危険な航路を進み、台湾・高雄港で魚雷攻撃を受けました。
  • 魚雷は不発でしたが、戦局の逼迫を身をもって知る出来事となりました。
  • 南方各地での慰問は兵士たちの心を支える大きな役割を果たしました。

▼前回の記事は以下↓をご覧ください。

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