戦後の日本で、国民の心を支え続けた歌手・藤山一郎。
「夢淡き東京」「青い山脈」「長崎の鐘」など、時代を象徴する大ヒット曲を次々と世に送り出し、 その歌声は希望の象徴として全国に響き渡りました。
しかし、華々しい活躍の裏で、彼の身体には静かに“異変”が忍び寄っていました。
誰も知らなかった病魔との闘い――その真相に迫ります。
藤山一郎を襲った異変とは?戦中・戦後の過酷な環境が影を落とす!
第32弾画像2.jpg)
藤山一郎が絶頂期を迎えていた昭和二十四年頃、札幌での公演の帰路、列車の中で気分が悪くなり、腹部がまるで桐で刺されたような痛みに襲われました。
その後も断続的な痛みをこらえながらも、なんとか自宅に帰ったものの、二階の自室のドアを開けようとしたとき、再び激しい痛みに襲われ、そのまま意識を失いました。
気づくと赤坂の山王病院の病室におり、なんと1週間も経過していたそうです。
聞けば、自室で意識を失ったとき、奥さんがびっくり仰天し、近所の医師を呼んだところ、その医師では手に負えないということで同院に担ぎ込まれたということでした。
病名は肝臓膿瘍。
これは肝臓の中に膿が発生するという奇病で、一刻の猶予も許されず、直ちに手術が施されたということでした。
当時の日本は戦後の混乱が続き、栄養状態も医療体制も十分ではありませんでした。
そのような中、藤山一郎は全国を巡る慰問や公演で過密なスケジュールをこなし、疲労は極限に達していました。
自伝によると、この病気の原因は三年にわたる海外慰問、そして終戦後の捕虜生活の苦労、帰国後の全国を巡るあわただしい仕事の疲れからであったとされます。
藤山一郎の病状は手遅れ寸前!歌手生命を脅かす深刻な症状とは?
第32弾画像3.jpg)
藤山はこの時の病状について、もう一時間も処置が遅れていたら腹部に膿が出て(肝臓破裂で)命は助からなかったといっています。
検査の結果、肝臓からはアクチノミコーゼという菌が発見されましたが、この化膿菌は主に牛につくもので、人間についたのははじめてだと医師から言われたと自伝では記されています。
そして縫合した傷はまるでラグビーのボールの縫い目にようで、それを見られるのが恥ずかしかったとも綴っています。
この奇病は肝臓内の化膿菌をまず退治する必要があり、そのためには当時、大変高価なペニシリンが必要だったそうです。
そのため、奥さんは着物や装身具を売り払い、百本あまりのペニシリンやストレプトマイシンを整え、藤山が退院するまで献身的に尽くしてくれたということでした。
藤山一郎が退院後、副業に乗り出した理由は?
第32弾画像4.jpg)
藤山一郎はこの体験から「またいつこうした病気にかからないとも限らない。そのために何か副業を」と考えるようになりました。
そして退院後、家族周辺に相談の上、奥さんを社長にして「ミッキー・モータース」という在留外国人用のガソリンスタンドを併設したカーウォッシュスタンド(洗車・整備・給油業)を始めました。
一方、奇病ともいえる大病は癒えたものの、「果たして歌は歌えるだろうか」と思い、真剣に発声練習を行っています。
練習当初は腹部に力が入らず、健康なときに比べると多少物足らなかったものの、少し静養すると従来どおり歌えると思え、嬉しくなったそうです。
そして知人、友人に「藤山一郎この度、薬石効あり無事退院、現在自宅にて静養中」という奇抜な挨拶状を送り、退院して二週間もたたないうちにNHKラジオ『愉快な仲間』へのレギュラー出演に応じたとされます。
病状は一時、歌手活動の継続が危ぶまれるほど深刻でしたが、家族の献身的な看病や医師たちの懸命な治療によって救われたのでした。
そして何よりも彼の「必ず歌手として戻る」という強い意志が、体力回復を後押しし、少しずつ復調していきました。
復帰後のステージで披露された歌声は、以前よりも深みを増し、病魔に打ち勝った藤山一郎は再び国民的歌手としての地位を確固たるものにしたのです。
まとめ
- 藤山一郎は戦後の過酷な環境と過労により体調を崩しました。
- 声が出なくなるほどの深刻な症状に襲われ、歌手生命が危機に陥りました。
- 家族と医師の支えにより、徹底した療養で奇跡の復活を遂げました。
- 復帰後の歌声はさらに深みを増し、国民的歌手としての地位を確立しました。
参考文献:藤山一郎自伝~歌声よひびけ南の空に~
▼前回の記事(第31弾)はこちら↓をご覧ください。
第31弾画像1アイキャッチ.jpg)
第32弾画像1アイキャッチ.jpg)
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] […]