二葉あき子の歌心は帰郷後も健在!自ら歌い出した「パダム・パダム」の重厚な歌声に圧倒された日

戦後の日本歌謡史を語るうえで欠かせない存在である二葉あき子さん。

その歌声は、若き日のレコードや映画の中だけに残っていると思われがちです。

しかし、帰郷後のご自宅でふと響いた“あの低音”は、筆者の想像をはるかに超えるものでした。

静かな部屋に流れた「パダム・パダム」の重厚な歌声は、まさに往年のステージそのもの。

今回は、その忘れがたい瞬間を記録として残したいと思います。

目次

二葉あき子の歌心は帰郷後も健在だった!

ご自宅で筆者と共に「高原の月」をお歌いになる
二葉あき子さん(お孫さん撮影)

二葉あき子さんが広島へ帰郷された後、ご家族から「歌心を忘れないように、本人に歌う機会を作ってほしい」と依頼を受けたことがその後の歌を通じた交流の始まりでした。

ご自宅では全集の歌詞集を広げ、テレビやステージでは歌われなかった曲を中心に、メロディーの記憶が残っていればという前提で歌唱をお願いする時間が設けられました。

まずお願いしたのはデビュー曲「愛の揺籃(ゆりかご)」。

1936年発売のこの曲を、二葉さんは歌詞集を手に取り、ゆっくりと確かな音程で3コーラスを歌い切られました。

その姿は、まさに往年の姿を彷彿とさせるものでした。

続いて「白蘭の歌」「めんこい仔馬」などもアカペラで披露され、さらにカラオケ音源を使って「高原の月」をご一緒に歌わせていただきました。

カラオケは普段されないと伺っていましたが、ご自宅では音吐朗々とした堂々たる歌声が響き渡りました。

二葉あき子が語った記憶と語らなかった記憶とは?

SP盤時代だけでも450曲以上を吹き込まれた二葉さん。

曲の記憶について伺うと、「たくさん曲があるかねえ。覚えてないわ」と穏やかに答えられました。

例えば、戦後第1号映画『そよかぜ』の中で霧島昇さんとデュエットされた「別れ路の歌」を映像でお見せした際も、「覚えてないわ」と静かに首を振られました。

実際には、二葉さんはこの映画では山田恵美というスター歌手役で出演し、主題歌の「リンゴの唄」を歌った“みち”役の並木路子は劇場の裏方役(照明係)からコーラスガール、そして夢見た歌手へと抜擢されるというストーリーが展開されています。

一方で、筆者の父がお気に入りであった、戦時中の1942年に発売された「高原の月」と同じ年に二葉さんが志村道夫さんと吹き込まれた「密林(ジャングル)の月」について尋ねると、「そんな人がいたわねえ」とだけお話しになりました。

曲名の対照性や時代背景を考えると興味深い作品ですが、記憶は薄れていたようです。

筆者としても、これ以上の負担をかけるべきではないと判断し、記憶の確認は控えめに終えました。

しかし、この後、思いがけない瞬間が訪れます。

二葉あき子が自ら歌い出した「パダム・パダム」!

記憶確認の話題が一段落した頃、二葉さんの方から突然「パダム・パダム」を歌い始められました。

この曲は1951年にエディット・ピアフが発表したシャンソンの名曲で、日本では藤浦洸が訳詞を担当。

1950年代前半、日本にシャンソンが本格的に入ってきた時期に、二葉さんはその最前線に立ち、第3回(1953年正月)と第5回(1954年大晦日)の紅白歌合戦で2度披露した日本の先駆者のお一人です。

ピアフの激情型の歌唱に対し、二葉さんは“静の情念”と呼ばれる低音の表現で対抗したと言われています。

そしてこの日、ご自宅で響いた歌声は、まさにその“情念”そのもの。

低音の深み、息遣い、言葉の置き方──どれも往年のステージを彷彿とさせる圧巻の歌唱でした。

筆者は静かに胸が熱くなるような感動を覚えました。

あの日の「パダム・パダム」は、筆者の記憶の中では、今も鮮明に響き続けています。

まとめ

  • 二葉あき子さんの歌心は、帰郷後も確かに息づいていました。
  • デビュー曲から戦前・戦後の名曲まで、記憶に残る歌を丁寧に歌い継いがれていました。
  • 紅白で2度歌った「パダム・パダム」は、晩年でも圧倒的な存在感を放っていました。
  • ご自宅での歌唱は、筆者にとって忘れられない“最後のステージ”のような瞬間でした。

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