藤山一郎は「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」など数々の名曲を世に送り出し、歌謡界の礎を築いた存在です。
その華々しい活躍は広く知られていますが、実は歌手としての第一歩は、わずか10歳の童謡歌手時代にありました。
しかも、その頃の「報酬」は現金ではなく、意外な記念品だったと本人が語っています。
幼い頃から才能を認められた藤山一郎は、どのようにして日本を代表する歌手へと成長したのでしょうか。
今回は、知られざるデビュー秘話と、歌手人生の原点をたどります。
藤山一郎は国民栄誉賞を受賞した伝説の歌手!

平成4(1992)年5月、藤山一郎さんは歌手としての長年の功績が認められ、国民栄誉賞を受賞しました。
平成に生前受賞した唯一の歌手として、その名は日本音楽史に深く刻まれています。
受賞盾には、「歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与えた功 美しい日本語の普及に貢献」という言葉が刻まれていました。
この一文は、藤山さんが単なるヒット歌手ではなく、日本語の美しさを全国へ届けた文化人でもあったことを物語っています。
本名は増永丈夫(ますなが たけお)さん。慶應義塾普通部から東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ進学し、在学中に「藤山一郎」の芸名でデビューしました。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などは学生時代に吹き込まれた作品ですが、いずれも空前の大ヒットとなりました。
当時は学生が流行歌を歌うことは問題視され、退学の危機にも直面しましたが、家族の借財返済のためだった事情が認められ、退学処分を免れたという逸話も残されています。
藤山一郎は10歳で童謡歌手デビュー!

実は藤山一郎さんの歌手人生は、学生時代ではなく10歳の頃から始まっていました。
幼少期、親戚には「案山子」の作曲で知られる山田源一郎がおり、幼い藤山少年はその家を訪れては、膝の上でピアノ伴奏と歌に親しんでいたそうです。
この音楽環境こそが、後の大歌手誕生の原点でした。
慶應幼稚舎4年生になると、その美しい歌声が認められます。
音楽教師であり、「はねばし」の作曲者としても知られる江沢清太郎の推薦を受け、童謡歌手に抜擢されました。
そして、江沢作曲の「半どん」「カチカチ山の春」をはじめ、「春の野」「山の祭り」「何して遊ぼ」「はねばし」などをレコードに吹き込みます。
まだ10歳の少年がレコード歌手として活躍していたことは、現在ではあまり知られていない事実です。
さらに童謡童話会の演奏会にも出演し、慶應幼稚舎の内外で澄み切った歌声を披露していました。
この経験が、人前で歌うことへの自信と舞台度胸を育み、後の国民的歌手への第一歩となったのです。
藤山一郎の初報酬は現金ではなかった?

現在なら、子どもの芸能活動には出演料や契約料が支払われるのが一般的です。
しかし、大正時代は事情が異なっていました。
藤山一郎さんは自伝の中で、当時は子どもの出演に対する報酬制度そのものが整っていなかったと振り返っています。
そのため、レコード吹き込みや演奏会に出演しても現金は支払われず、代わりに贈られたのはゴム長靴やクレヨン、メダルなどの記念品でした。
一見すると物足りなく感じるかもしれませんが、藤山さん自身はこの出来事を前向きに受け止めています。
「子どもの心をお金でむしばまなかったことは、むしろ良い傾向だった」という趣旨の回想を残しており、幼い頃から純粋に歌う喜びを大切にしていたことがうかがえます。
だからこそ、流行や名声だけを追い求めることなく、日本語の美しさや歌の品格を大切にする歌手へと成長したのでしょう。
10歳で手にしたのは現金ではありませんでしたが、それ以上に価値ある経験と、多くの人々から認められた自信だったのかもしれません。
まとめ
- 藤山一郎さんは平成に生前で国民栄誉賞を受賞した唯一の歌手です。
- 藤山一郎さんの歌手デビューは東京音楽学校時代ではなく、10歳の童謡歌手時代でした。
- 慶應幼稚舎4年生で才能を認められ、レコード吹き込みを経験しています。
- 初期の代表的な吹き込みには「半どん」「春の野」「山の祭り」「何して遊ぼ」「はねばし」などがあります。
- 初報酬は現金ではなく、ゴム長靴やクレヨン、メダルなどの記念品でした。
- 幼少期の経験が、後に「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などを歌い、日本を代表する歌手へ成長する礎となったのです。
前回のレジェンド歌手(二葉あき子)の記事はこちら↓をご覧ください。


コメント