二葉あき子さんが2011年に96歳で亡くなってからも、その功績は故郷・広島で語り継がれています。
毎年の追悼行事や平和祈念の音楽イベントでは、その後も彼女の歌声と平和への思いが紹介されています。
その象徴ともいえるのが、2015年に広島市東区二葉の里に建立された歌碑です。
歌碑には代表曲『夜のプラットホーム』が刻まれ、多くの人々が訪れる場所となっています。
では、この歌碑はなぜ建てられ、建立を主導した人物はどのような人だったのでしょうか。
今回はそのあたりを掘り下げてまいります。
二葉あき子の功績を讃える動きは没後も続いていた!

二葉あき子さんの死去後、広島では一周忌にあわせて盛大な偲ぶ会が開催されました。地元の関係者や音楽愛好家が集まり、その功績を振り返る機会となったのです。
その後も平和祈念の音楽イベントの中で追悼コーナーが設けられ、二葉さんの歩みや名曲の数々が紹介されてきました。
没後も毎年のように追悼企画が続いたことは、二葉あき子さんが広島市民にとって特別な存在だったことを物語っています。
また、三回忌にはご家族の案内で都内の納骨堂を訪れる人もおり、多くの人々が故人を偲び続けていました。
こうした活動の積み重ねが、後の歌碑建立へとつながっていったのです。
二葉あき子の歌碑に『夜のプラットホーム』が選ばれた理由とは?
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2015年、生誕100年と被爆70年を記念して「二葉あき子歌碑建立委員会」が発足し、同年11月に広島市東区二葉の里に歌碑が建立されました。
歌碑に刻まれた曲は『夜のプラットホーム』です。
この選曲には深い意味がありました。
『夜のプラットホーム』は戦時中に発表された作品でありながら、出征兵士との別れを連想させるとして軍部から発売禁止となった異色の名曲でした。
戦後、二葉さんは「二度とあのような別れの光景を繰り返してはならない」という願いを込めて歌い続け、大ヒット曲となりました。
さらに二葉さん自身も1945年8月6日、芸備線の列車で広島市内を通過中に被爆の危機を免れた経験を持っています。
そのため『夜のプラットホーム』は単なるヒット曲ではなく、平和への願いと戦争犠牲者への鎮魂の思いを象徴する楽曲として位置付けられていたのです。
二葉あき子の歌碑建立を主導した原田康夫とは?
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歌碑建立委員会の委員長を務めたのは、元広島大学学長の原田康夫さんでした。
耳鼻咽喉科医として著名である一方、オペラ歌手としても長年活動されており、「歌う学長」として全国的に知られていました。
当時は広島市文化財団常任顧問理事や広島市現代美術館館長も務めており、文化行政の分野でも大きな役割を果たしていました。
そして2025年には、なんと「最高齢の男性テノールオペラ歌手」としてギネス世界記録に認定されています。
95歳となった現在も医師とオペラ歌手の両方で現役を続ける姿は、多くの人に驚きと感動を与えています。
一周忌の偲ぶ会には元広島市長が参加し、歌碑建立では広島大学元学長が委員長を務めるなど、二葉あき子さんがいかに広く敬愛されていたかが分かります。
現在も命日には有志が歌碑の前に集まり、『夜のプラットホーム』を合唱して故人を偲んでいます。
その光景は、歌碑が単なる記念碑ではなく、平和と追悼の象徴として生き続けていることを示しています。
まとめ
- 二葉あき子さんの没後も広島では追悼活動が継続されていました。
- 2015年、生誕100年・被爆70年を記念して歌碑が建立されました。
- 歌碑には平和への願いが込められた代表曲『夜のプラットホーム』が刻まれています。
- 建立委員長は元広島大学学長で「歌う学長」として知られる原田康夫さんでした。
- 原田康夫さんは2025年に最高齢男性テノール歌手としてギネス認定を受けています。
- 現在も命日には歌碑前で『夜のプラットホーム』が歌われ、二葉あき子さんの功績が語り継がれています。
シリーズでお届けしてきたレジェンド歌手・二葉あき子さんの記事は、今回をもちましてひとまず一区切りとさせていただきます。
次回からは、二葉あき子さんが深く敬愛するとともに、どこか畏敬の念を抱いて接していた東京音楽学校(現・東京藝術大学)の先輩、藤山一郎さんを取り上げる予定です。
日本歌謡界の礎を築いた国民栄誉賞受賞歌手・藤山一郎さんと、二葉あき子さんとの関わりや知られざるエピソードについてもご紹介してまいります。
どうぞご期待ください。
前回の記事はこちら↓をご覧ください。


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