昭和を代表する歌手・藤山一郎には、驚くべき早業で歌った一曲があります。
それが、1941年(昭和16年)12月10日にNHKラジオで放送された「英国東洋艦隊潰滅」です。
なんと、大本営発表からわずか数時間で作詞・作曲され、ニュースに合わせて放送されたのです。
作詞は髙橋菊太郎、作曲は古関裕而、そして歌唱を担当したのが藤山一郎でした。
ところが、この話題の歌は、なぜか当時レコード化されませんでした。
その理由とは何だったのでしょうか。
藤山一郎は3時間で「ニュース歌謡」を完成させた!
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1941年12月10日、日本海軍がマレー沖でイギリス東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋艦「レパルス」を撃沈したことが大本営から発表されました。
発表されたのは午後4時15分ごろです。
NHKでは、この戦果を午後7時のニュースで伝える際、単なる報道だけでなく、戦果を題材にした歌を添えて放送するという異例の企画が進められました。
藤山一郎の自伝によれば、NHKから「この戦果を記念して歌を流したい」と出演依頼が届き、藤山はすぐに放送会館へ向かいました。
ところが、到着してみると、髙橋菊太郎はまだ作詞の真っ最中でした。
さらに古関裕而は、髙橋が一節を書き上げるたびに、その場で曲を付けていったのです。
藤山は完成した歌詞を写しながら歌を覚え、オーケストラ用の編曲とリハーサルも同時進行しました。
藤山一郎はほぼ初見でラジオの本番に臨んだ!
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この制作現場は、まさに時間との戦いでした。
藤山は自伝の中で、音を出してのリハーサルは一回だけだったと振り返っています。
しかも、本番直前まで作業が続き、十分な練習時間などありませんでした。
前奏についても、時間がないため「軍艦マーチ」の前奏曲を借りることになったといいます。
それでも3人は、午後7時のニュース放送に間に合わせるために作業を続けました。
このようにして誕生したのが「英国東洋艦隊潰滅」です。
ニュース放送と同時に発表されるという、現在では考えにくいほどのスピードで作られたため、「ニュース歌謡」と呼ばれる特別な存在になりました。
藤山一郎にとっても、作詞家と作曲家が目の前で作品を作り、それをほとんど初見で歌うという経験は、極めて異例だったと考えられます。
藤山一郎の「英国東洋艦隊潰滅」はなぜレコード化されなかった?
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ところが、この歌には意外な結末が待っていました。
放送後、この歌は人々の間で口ずさまれたにもかかわらず、当時はレコードに吹き込まれなかったのです。
その理由を藤山は自伝で明かしています。
当時、髙橋菊太郎はキングレコード、古関裕而と藤山一郎はコロムビアレコードの専属でした。
つまり、作詞家と作曲家・歌手がそれぞれ別のレコード会社に所属していたのです。
現在のように、レコード会社をまたいで作品を発売する仕組みが整っていたわけではありませんでした。
藤山は、まだ作品のバーター制がなかったため、通常の商業ベースならレコード化は難しかったと説明しています。
しかも、この曲は通常のレコード商品として企画されたものではなく、非常時のニュース放送に間に合わせるために作られた歌でした。
その特殊な事情も、レコード化されなかった背景にあったのでしょう。
しかし、幻のまま消えたわけではありません。
それから25年後の1966年(昭和41年)、藤山一郎自身の歌唱によって改めてレコーディングされ、「ステレオによる日本軍歌集」(日本コロムビア盤)に収録されました。
つまり「英国東洋艦隊潰滅」は、1941年のニュース放送で生まれ、1966年になって初めてレコードとして残された曲だったのです。
まとめ
- 藤山一郎は1941年12月10日、NHKの「英国東洋艦隊潰滅」を歌いました。
- 大本営発表から午後7時のニュースまでの短時間で、作詞・作曲・編曲・リハーサルが進められました。
- 髙橋菊太郎、古関裕而、藤山一郎の3人による異例の制作作業でした。
- 当時レコード化されなかったのは、作詞家と作曲家・歌手の所属レコード会社が異なり、作品のバーター制もなかったためです。
- その後、1966年に藤山一郎の歌唱でレコード化され、後世にその歌声が残されることになりました。
▼前回の記事はこちら↓をご覧ください。
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