昭和歌謡史に名を刻む淡谷のり子。
しかし、その華々しい活躍の裏には、誰もが驚く「不合格の連続」がありました。
音楽教師試験にも、レコード会社の面接にも落ち続けた若き日の淡谷。
なぜ、後に“ブルースの女王”となる才能が、当時は理解されなかったのでしょうか。
その理由を、当時の社会背景と自伝から読み解きます。
淡谷のり子が音楽教師試験で不採用になった理由とは?

淡谷のり子は、東洋音楽学校で声楽を学び、クラシックの基礎を徹底的に身につけました。
そして昭和4(1929)年に卒業後、各音楽学校の卒業生代表が出演する会で音楽界の権威がずらりと来賓席に並ぶ中、初舞台を踏みました。
曲はドイツオペラ「魔弾の天使」のエンヘンのアリア。
翌日の新聞の批評では十年に一人のソプラノだと絶賛されています。
しかし、卒業後に受けた女学校の音楽教師試験は不合格。
その理由は、校長と面接をした際の姿にありました。
真っ赤なセーラー服におかっぱ姿。
「あなた、いつもそんな恰好をしているんですか。それじゃまるで生徒みたいでちっとも先生らしくないですねえ」と履歴書をみながら校長が指摘し、結局、あっさり断られたといいます。
これについては当時、相変わらず貧しい生活の中、普段着として着ていたものを着用し、採用面接用の服を購入する費用がなかったものと思われます。
さらに、淡谷のり子の性格の強さも誤解されました。
彼女は自立心が強く、物事をはっきり言うタイプでしたが、当時の女学校は「従順で控えめな女性像」を求めていました。
その価値観のズレが、採用側とのミスマッチを生んだものと思われます。
淡谷のり子がレコード会社の面接でも落選した理由とは?

音楽教師試験に続き、淡谷のり子は小さなレコード会社の面接でも不合格になります。
ここでも理由は「才能がない」ではなく、当時の音楽業界の価値観と合わなかったことでした。
面接官は淡谷のり子の歌声を聴き、「声が余りに大きすぎる」「レコード(マイク)に向かない」 と評価しました。
そのため、面接官は彼女を採用しても、売れないだろうと判断してしまったのです。
さらに、淡谷のり子は面接で自分の意見をはっきり述べるタイプでした。
それらが「扱いにくい」と受け取られ、採用を見送られた可能性もあります。
淡谷のり子の才能が伝わらなかった時代背景!

淡谷のり子が不合格を重ねた背景には、昭和初期の女性観と音楽観があります。
当時の社会は、「女性は控えめであるべき」という価値観が強く、淡谷のり子のような強い個性や深い情感は理解されにくい時代でした。
その後、学校の楽団に出入りする楽譜の出版社の担当者からの紹介でポリドールのテストを受けました。
当初はやはり声量がありすぎるという理由で社内的には不合格。
しかし、プーレというドイツ人の技師が「ともかく、この人の声は珍しい。とっておきなさい」ということで、全員反対の中、最後の瀬戸際で採用になったという経緯が自伝に記されています。
実際、このドイツ人技師は会社のディレクター中でも絶対的権威を持っており、淡谷と同い年の娘がいたということも背景にあり、入社後、淡谷は彼に大変可愛がられたという逸話が残っています。
このような事情や背景を覆すかのように、彼女の歌声は時代が進むにつれ評価が一変します。
戦後の混乱期、人々が心の叫びや悲しみを歌に求めるようになると、 淡谷のり子の“ブルースの深み”が圧倒的な支持を受けるようになりました。
つまり、淡谷のり子は「時代が追いつくのを待つ必要があった歌手」だったのです。
まとめ
- 音楽教師試験の不合格理由は「個性が強いと誤解された」ためです。
- レコード会社の面接では「声量が大き過ぎて扱いにくい」「売れない」と判断されました。
- 昭和初期の価値観が淡谷のり子の個性と合わず、才能が理解されにくい時代でした。
- 後に時代が変わり、彼女の深い歌唱が“ブルースの女王”として評価されました。
参考文献:「淡谷のり子 わが放浪記」「最後の自伝 いのちのはてに」
▼前回の記事(第1話)はこちら↓をご覧ください。


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