藤山一郎さんは、戦時中に一度だけではなく、再び南方への御奉公に向かうことになります。
昭和18年、赴任先として決まったのは、南方のセレベス島にあるマカッサルでした。
そこへ向かう船旅は、平時の海外旅行とはまったく違う緊張感に包まれていました。
佐世保を出港し、シンガポールを経て、さらにインドネシアへ向かった藤山さん。
そこで目にしたのは、戦時下でありながら異国情緒を残す熱帯の光と風でした。
藤山一郎は再度の御奉公に向かった!
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藤山一郎さんの南方への再度の御奉公は、昭和18年10月ごろ、赴任先がセレベス島のマカッサル市にある海軍民政府と決まったことから始まります。
当時の南方慰問は、平和な時代の公演旅行とは大きく異なっていました。
軍の関係者として現地へ向かい、現地の兵士たちを慰問し、歌を届けることが目的だったのです。
藤山さんは、海軍運輸船「興亜丸」に乗船しました。
佐世保の港を離れる際には、見送りに来た人々の姿を甲板から眺めながら、これまでとは違う長い旅への思いを胸に刻んでいたことがうかがえます。
船が港を離れると、故郷の景色は次第に小さくなっていきます。
藤山さんにとって、それは単なる出発ではなく、戦時下の「御奉公」へ向かう旅立ちでした。
藤山一郎はシンガポールを経て南方へ向かった!
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今回の航路は、前回の南方行とは異なり、マニラを経由するものではありませんでした。
シンガポールを経由してインドネシア方面へ向かう航路が選ばれました。
ところが、旅は順調に進んだわけではありません。
シンガポールでは、次の便船を待つため、約1か月ほど滞在することになったのです。
その間、藤山さんたちは南方での活動に備えます。
そして、ようやく次の船に乗り込み、目的地へ向かいました。
やがて一行が到着したのは、現在のジャカルタにあたるバタビアです。
当時のバタビアは、オランダ統治時代の面影を残す都市でした。
戦争の只中にありながら、藤山さんの目には、それまで日本では見ることのできなかった異国の風景が映っていたのです。
藤山一郎が見た熱帯の光と風とは?
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バタビアに上陸した藤山さんが目にしたのは、熱帯特有の明るい光と、西洋文化の影響を受けた街並みでした。
道路は整備され、コンクリートの建物も見られました。
雨が降れば泥んこになる道もありましたが、日本とは異なる都市の姿に、藤山さんは南方の「熱帯の光と風」を強く感じたのではないでしょうか。
さらに、現地では映画などを通じて文化に触れる機会もありました。
藤山さんは、戦後になってからも、この南方で見聞きしたことを振り返っています。
しかし、華やかな異国情緒だけが南方の現実ではありません。
慰問団として訪れた場所には、戦争による厳しい状況もありました。
だからこそ、藤山さんが現地で歌を届けた意味は大きかったのです。
歌は兵士たちにとって、故郷や平穏な日常を思い出すきっかけにもなったと考えられます。
南方で見た美しい風景と、戦争の現実。
その両方を目にしたことが、藤山一郎さんの南方慰問を語るうえで重要なポイントになります。
まとめ
- 藤山一郎さんは昭和18年、再度の「御奉公」として南方へ向かいました。
- 赴任先はセレベス島のマカッサルで、海軍関係の任務に伴う南方行でした。
- 「興亜丸」で佐世保を出港し、シンガポールを経由してインドネシアへ向かいました。
- シンガポールでは次の便船を待つため、約1か月ほど滞在しました。
- バタビアでは、戦時下でありながら、熱帯特有の光と風、西洋文化の面影が残る街並みを目にしました。
- その一方で、南方には戦争の厳しい現実もあり、藤山さんはその両面を見ながら慰問の歌を届けていきました。
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