藤山一郎は終戦後も南方に残った!現地で広がった険悪な空気とは?

日本が降伏し、戦争が終わったにもかかわらず、藤山一郎はすぐに帰国できませんでした。

南方では、日本軍の武装解除をめぐって現地との緊張が高まっていました。

やがて藤山一郎たちは収容され、厳しい環境の中で生活することになります。

しかも、収容所の内部でも意見の対立が生まれ、「戦争が終わった後」の新たな苦難が待っていました。

今回は、藤山一郎の自伝にある「険悪な空気」の記述から、その知られざる終戦後をたどります。

目次

藤山一郎は終戦後も南方で武装解除をめぐる緊張を目撃した!

日本の降伏後、南方では現地の独立運動が活発になり、日本軍の武器をめぐる問題も大きくなっていました。

自伝によると、ついに12月2日、現地側から武装解除を迫られる時が訪れます。

第三南遣艦隊司令部には、解放軍の隊長や民兵らが訪れ、日本軍の武器を接収しようとする動きが強まっていました

日本側にも、これに反対する者がいました。

柴田長官らは、簡単に要求を受け入れることができず、双方の間には緊迫した空気が漂います。

藤山一郎は、このような状況の中で、柴田長官や首脳部以下の人々とともに、中部ジャワのナウイという場所へ移送されることになりました

華やかな舞台で歌っていた歌手が、戦争終結後には自らも収容される立場となったのです。

藤山一郎は収容される際にも愛用のアコーディオンを手放さなかった!

ナウイへの移送に際して、藤山一郎たちはわずかな私物しか持つことを許されませんでした。

そのとき藤山一郎が手放さなかったのが、愛用していたアコーディオンです。

さらに、司令部にあった短波受信機も持ち出そうと考えました。

短波受信機は大きく、背中に担がなければならないほどのものでした。

それでも藤山一郎にとっては、外部の情報を知るための重要な道具でした。

その後、短波受信機は収容所で思わぬ役割を果たします。

外部から情報が入りにくい収容所生活の中で、ラジオから得られる情報は藤山一郎たちにとって大きな支えになったのです。

しかし、移送先がどのような場所なのかは、藤山一郎たちには分かりませんでした。

やがて到着したナウイには、すでに約500人の陸軍将兵が収容されており、雑居房の中でひしめき合うような生活が始まりました

藤山一郎は収容所の過酷な生活に憤慨した!

収容所で待っていたのは、決して快適とはいえない生活でした。

藤山一郎は自伝で、睡眠不足や衛生状態の悪さ、風通しの悪い環境などについて記しています。

雑居房に入れられた人々は、十分に休むこともできない状態でした。

食事も粗末で、日がたつにつれて藤山一郎たちの体力は奪われていきます。

しかも、収容所では病気も発生していました。

自伝には、ある雑居房でパラチフスが発生し、実際に死者まで出ていたことが記されています。

藤山一郎は、こうした扱いに対して強い憤りを覚えます。

自分たちは犯罪者として収容されたのではなく、戦争を終えて捕虜となった日本人でした

そのため、収容所の待遇について改善を求める必要があると考えました。

ところが、こうした問題をめぐっても、関係者の間で意見が一致するわけではありませんでした。

こうして、戦争そのものが終わった後にも、収容された日本人たちは別の緊張と苦難に直面していたのです。

まとめ

  • 藤山一郎は日本の降伏後もすぐには帰国できず、南方で収容されることになりました
  • 現地では武装解除をめぐって日本側と現地側の緊張が高まり、終戦後も険悪な空気が続いていました
  • 移送の際、藤山一郎は愛用のアコーディオンを手放さず、短波受信機も持ち出しました
  • ナウイの収容所では、睡眠不足や衛生状態の悪さ、粗末な食事など、厳しい生活を強いられました
  • さらに病気による死者も出るなど、藤山一郎にとって終戦は苦難の終わりではなく、新たな試練の始まりでもあったのです。

▼次回の記事(第20弾)はこちら↓をご覧ください。

▼前回の記事(第18弾)はこちら↓をご覧ください。

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