藤山一郎は引揚げ船の中で「吾祖国に還る」を作詞・作曲!なぜ未レコード化?

戦争が終わり、ようやく祖国へ向かう引揚げ船の中で、藤山一郎は一つの歌を託されました。

それが「吾祖国に還る」という、帰還者たちの心を支えた名曲です。

しかし、この歌は戦後の商業レコードとしては残されていません。

なぜ船内で生まれ、多くの人に歌われた曲が、レコードとして形を残さなかったのでしょうか。

その背景には、戦後直後の混乱と、藤山一郎自身の復帰状況が深く関係していました。

目次

藤山一郎が引揚げ船で託された帰還者の歌とは?

島の収容所の日本人捕虜のほとんどが祖国に引揚げるまで、藤山一郎はイギリス軍将兵の慰問を続けました。

「ああ、私の引揚げ船は、いったいいつくるんだろうか?」と郷愁の念がだんだんと心の中にひろがっていく中、ついに藤山一郎が乗船する復員船がやってきました。

それはなんと航空母艦「葛城」でした。

そしてケアー大尉から帰国の支度を促され、司令部の収容所長・ゲリントン中佐やその副官に挨拶を済ませると彼らはしきりに別れを惜しんだといいます。

また、一介の捕虜である自分に対し、波止場までジープで送ってもらうという待遇に藤山は大いに感激しています。

その上、特別にイギリス軍側で手配してもらった快速艇を待つ間、そこに勤務していた兵士たちが、藤山の帰国を知り、自分だちが「いつ帰国できるかわからないんだ」とさもうらやましそうにいい、別れを惜しんだといいます。

この時、藤山は「心から歌手になってよかった。歌を歌うことに国境はない!それは銃のように人間と人間が殺し合い、憎しみ合うことはなく、人間の心と心をむすびつけることができるからだ」と思ったそうです。

そして沖合に停泊している空母「葛城」に快速艇が近づくと、甲板から昇降梯子が下ろされ、藤山は一般の帰国者のように命がけで縄梯子をよじ登る苦労はなく、これもイギリス軍側の好意であったと回想しています。

そうして乗り込んだ引揚げ船の中で、藤山一郎は輸送指揮官から「祖国に帰る記念に何か作曲していだだけませんか」と依頼されます。

祖国が見えるわけでもなく、ただ海の上を進むだけの数日間。

その中で、帰還者たちの胸に渦巻く感情は溢れ出してしまうほど強いものでした。

藤山はその思いを受け止め、船内で作詞・作曲を行い、「吾祖国に還る」が誕生します。

歌は瞬く間に船内へ広がり、帰還者たちが口ずさむ“希望の歌”となりました。

祖国へ向かう船の揺れと、胸の高鳴りがそのまま旋律に宿ったような曲だったといいます。

この歌は、帰還者の心情をそのまま映した“状況歌”であり、戦争直後の混乱期に生まれた、極めて現場的な創作だったことが重要なポイントです。

藤山一郎の戦後復帰とレコード化されなかった理由とは?

「吾祖国に還る」がレコード化されなかった理由は、複数の要因が重なったと考えられます。

まず、この曲が作られたのは、商業レコード制作体制がまだ整っていない戦後直後だったことです。

レコード会社も設備も人員も不足し、復興のための体制づくりが優先されていました。

そのため、船内で生まれた状況歌をすぐに商品化する余裕はありませんでした。

さらに、藤山一郎自身の戦後復帰も大きく影響しています。

彼が戦後にレコードとして残した曲は、『銀座セレナーデ』『三日月娘』『夢淡き東京』『長崎の鐘』『青い山脈』など、復興期の大衆歌が中心でした。

国民の生活を励まし、未来へ向かうための歌が求められた時代であり、引揚げ船での体験をそのまま商業化する流れにはなりませんでした。

つまり、

  • 「吾祖国に還る」は帰還者のための状況歌であったこと
  • 商業レコード制作体制が整う前に生まれたこと
  • 藤山一郎の戦後復帰後の活動が“復興期の大衆歌”へ向かったこと

これらが重なり、結果として未レコード化となったと推測できます。

藤山一郎が船内で歌った祖国への祈りが残したものとは?

引揚げ船の中で歌われた「吾祖国に還る」は、 レコードとして残らなかったにもかかわらず、帰還者の記憶の中に深く刻まれました。

船内では、藤山一郎が歌い出すと、周囲の人々が静かに耳を傾け、やがて一緒に口ずさむようになったといいます。

その光景は、戦争の終わりを実感し、祖国への思いを共有する“儀式”のようでもありました。

歌は記録として残らなくても、体験として人々の心に残った。

それこそが、この曲の本質だったのかもしれません。

また、藤山一郎が船内で歌を求められたという事実は、 彼が戦前・戦中・戦後を通じて「国民的歌手」であり続けた証でもあります。

どんな状況でも、歌が人々を支える力になることを、彼自身が体現していたのです。

まとめ

  • 「吾祖国に還る」は引揚げ船内で藤山一郎が作詞・作曲した歌です。
  • 帰還者の心情を映した“状況歌”であり、船内で広く歌われました。
  • 戦後直後でレコード制作体制が整っておらず、商業化されませんでした。
  • 藤山一郎の戦後の商業レコードは復興期の大衆歌が中心でした。
  • レコード化されなくても、帰還者の記憶に深く残った歌でした。

参考文献:藤山一郎自伝~歌声よひびけ南の空に~

▼次回の記事(第27弾)はこちら↓をご覧ください。

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