戦争が終わっても、藤山一郎たちの苦難はすぐには終わりませんでした。
ガラン島などの収容所で厳しい生活を送った日本人捕虜たちは、祖国へ帰れる日を待ち続けていたのです。
そんな中、ついに待望の復員船が姿を現します。
しかし、船は港に直接着けず、乗船には思いもよらない危険が待っていました。
今回は、自伝をもとに、藤山一郎たちがどのように復員船へ乗り込んだのかを紹介します。
藤山一郎は待望の復員船を見て何を思った?
第25弾画像2.jpg)
戦争が終結しても、藤山一郎たち日本軍捕虜は、すぐに祖国へ帰れたわけではありませんでした。
収容所では食糧不足など厳しい環境が続き、捕虜たちは一日も早い帰国を待っていました。
藤山一郎の自伝には、そんな中でようやく「待望の復員船」がやって来た日の様子が記されています。
復員船が到着したのは4月中旬のことでした。船はレンバン島沖に停泊し、日本人捕虜を乗せることになりました。
しかし、喜びだけで船に乗れる状況ではありません。
船は港に直接停泊できず、捕虜たちは「はしけ」と呼ばれる小型船を利用して乗船しなければならなかったのです。
祖国へ帰れるという大きな希望が生まれた一方で、そこには最後まで厳しい試練が待っていました。
藤山一郎たちは復員船にどう乗船した?
第25弾画像3.jpg)
復員船は二、三百トン級の船でしたが、岸壁に直接着けることができませんでした。
そのため、乗船者たちはまず、はしけに乗って沖合の復員船まで移動します。
そして、船の甲板から下ろされた縄ばしごを使って、復員船へ登らなければなりませんでした。
ところが、これが想像以上に危険な作業でした。
縄ばしごは、一人が登ると大きく揺れます。
自伝では、その危険性が描かれています。
この縄ばしごは簡単には登れません。
柔らかく揺れるため、前の人との間隔を空けすぎると、縄ばしごがたるんで不安定になってしまいます。
そのため、最初の人がある程度まで登ったら、二人目の人もすぐ後に続かなければなりませんでした。
荷物を背負ったまま揺れる縄ばしごを登るのは、非常に危険な作業だったのです。
しかも、捕虜たちは長期間の収容所生活によって体力を消耗していました。
荷物を背負って縄ばしごを登ることは、健康な人にとっても簡単ではありません。
「祖国へ帰れる」という喜びの一方で、復員船への乗船そのものが命懸けだったのです。
藤山一郎が見た復員船乗船の悲劇とは?
第25弾画像4.jpg)
さらに厳しかったのが、復員船へ荷物を運び上げる作業でした。
イギリス軍側の好意によって、捕虜には一定量(30キロまで)の荷物を持ち帰ることが認められていました。
しかし、荷物を背負ったまま縄ばしごを登るとなると、身体への負担は一気に増します。
自伝には、海面に転落する者や、助けようとしても海流の激しさで救助できない状況も描かれています。
縄梯子を登る人と人に間隔があくと、たるみが生じ、登ることも下りることもできなくなります。
さらに30キロまでの荷物を背負っているとあって、しだいにその重みで縄梯子のロープを握っている手がしびれ始めます。
必死に握れば握るほど手の感覚がなくなり、あっという間に海面に転落し、そのまま命を失った人も相当数いたとされます。
長い収容所生活を耐え抜き、「これで祖国へ帰れる」と思ったその最後の段階で、再び危険に直面したのです。
それでも、多くの人々は一歩ずつ縄ばしごを登り、復員船の甲板を目指しました。
この帰国の船は単なる輸送手段ではありませんでした。
戦地で過酷な日々を過ごした藤山にとって、復員船は「懐かしき祖国」へ戻るための希望そのものだったのです。
実際、自伝では藤山が船上で歌を歌う場面も描かれています。
歌手である藤山にとって、歌は収容所生活でも仲間を励ます大切なものでした。
帰国を目前にした船上でも、その歌は特別な意味を持っていたのではないでしょうか。
まとめ
- 藤山一郎たち日本人捕虜は、戦争終結後もすぐには帰国できず、復員船を待ち続けていました。
- 待望の復員船が到着したものの、港に直接着けなかったため、はしけを利用して乗船しました。
- 復員船へは縄ばしごを使って登る必要があり、体力を失った捕虜たちにとって非常に危険な作業でした。
- 荷物を背負って登る人もおり、海へ転落するなど、乗船の過程で悲劇も起きました。
- 藤山一郎にとって復員船は、長い収容所生活を終え「懐かしき祖国」へ帰るための大きな希望だったのです。
参考文献:藤山一郎自伝~歌声よひびけ南の空に~
▼前回の記事(第24弾)はこちら↓をご覧ください。
第23弾画像-1アイキャッチ.jpg)
第25弾画像1アイキャッチ差し替え.jpg)
コメント