戦時中、中国人女優「李香蘭」として一世を風靡した山口淑子は、終戦によって一転、追われる立場になりました。
日本の敗戦後、彼女に向けられたのは、華やかな拍手ではなく「漢奸(かんかん)」という重い疑いでした。
中国人と思われていた李香蘭には、最悪の場合、死刑につながる可能性さえあったのです。
上海で軟禁状態となり、裁判を待つことになった彼女を救うために動いたのが、意外な人物でした。
そして、遠く北京から届けられた一通の重要書類が、彼女の運命を大きく変えることになります。
李香蘭はなぜ戦後、漢奸の疑いをかけられたのか?
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1945年8月、日本の敗戦に伴い、それまで「李香蘭」として中国人女優の立場で活動していた山口淑子は、たちまち厳しい状況に置かれました。
戦時中の中国では、日本の占領政策に協力した中国人を「漢奸」として追及する動きが強まりました。
漢奸とは、外国勢力に協力して自国を裏切った中国人を指す言葉です。
漢奸に対する処罰は非常に重く、死刑になるケースもありました。
李香蘭は中国人として知られ、「支那の夜」など日本側の映画にも出演していました。
そのため、本人が日本人であることを知らない人々から見れば、まさに「日本に協力した中国人」と受け取られかねない立場だったのです。
しかし、彼女には大きな秘密がありました。
「李香蘭」は中国名であって、本当の名前は山口淑子。
日本人だったのです。
ところが、その事実を口で説明するだけでは十分ではありませんでした。
裁判で日本人であることを証明する「物的証拠」が必要だったのです。
李香蘭を救うため、親友リューバが動いた!
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上海で収容され、軍事裁判を待つことになった山口淑子の前に現れたのが、奉天時代からの親友だったリューバでした。
リューバは戦勝国ソ連の国民で、当時は比較的自由に収容所へ出入りできる立場にありました。
彼女は山口淑子の置かれた状況を知り、「日本人であることを証明できれば助かる」と考えます。
そこで問題になったのが、日本の戸籍謄本でした。
山口淑子の両親は当時、北京にいました。
リューバは北京へ赴き、両親のもとから日本人であることを証明する戸籍謄本を入手し、それを上海へ届けることに協力しました。
このとき、戸籍謄本はそのまま持ち運ばれたのではなく、日本人形の帯に隠して届けられたという、まるで映画のようなエピソードも伝えられています。
こうして山口淑子の手元に届いた日本の戸籍謄本は、彼女の運命を左右する決定的な証拠となりました。
李香蘭を救った戸籍謄本!漢奸裁判は無罪に!
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1946年2月、山口淑子の漢奸裁判が開かれました。
裁判では、彼女が本当に中国人なのか、それとも日本人なのかが重要な意味を持ちました。
日本人であることが証明されれば、中国人を対象とする漢奸の罪には問えないからです。
そして、両親から届けられた戸籍謄本によって、李香蘭の正体が日本人・山口淑子であることが証明されました。
結果は無罪。
ただし、裁判官は単純に「すべて問題なし」としたわけではありませんでした。
中国人の名前を使って日本側の映画に出演したことについては、倫理的・道義的な問題が残るとの趣旨を指摘したと、山口淑子自身が自伝で振り返っています。
それでも、最も恐れていた漢奸としての処罰を免れ、日本への帰国が認められることになりました。
ここで興味深いのは、同じように漢奸の疑いを受けた川島芳子との運命の違いです。
川島芳子は日本人の養女として育てられましたが、日本の戸籍に入っていなかったため、日本人であることを戸籍によって証明できませんでした。
そして最終的に死刑となりました。
戸籍の有無が、二人の運命を大きく分けたのです。
山口淑子にとって、戸籍謄本は単なる身分証明書ではありませんでした。
それはまさに、命を救った一枚の証明書だったのです。
まとめ
- 李香蘭こと山口淑子は、終戦後に中国人の「漢奸」と疑われ、軍事裁判を受けることになりました。
- 軟禁状態にあった彼女を救うため、奉天時代からの親友リューバが動きました。
- 北京にいた両親から取り寄せた日本の戸籍謄本が、日本人であることを証明する決定的な証拠となりました。
- 1946年2月の裁判で漢奸の疑いは晴れ、山口淑子は無罪となりました。
- 華やかな「李香蘭」の名声の裏側には、戦後、一歩間違えば命を失っていたかもしれない壮絶な運命がありました。
- そして彼女を救ったのは、遠く北京から届けられた戸籍謄本と、危険を顧みず行動した親友リューバだったのです。
▼前回の記事(前編)はこちら↓をご覧ください。
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