並木路子は地下室で玉音放送を聴いた!「リンゴの唄」を歌えなかった理由とは?

1945年8月15日、日本中が戦争の終わりを知った日です。

しかし、その瞬間を迎えた人々の状況は、それぞれ大きく異なっていました。

「リンゴの唄」で戦後を象徴する歌手となった並木路子も、その一人です。

並木路子は終戦の日、東京・有楽町の地下で玉音放送を聴いていました。

なぜ彼女は、その日「リンゴの唄」を歌うことができなかったのでしょうか。

目次

並木路子は終戦の日を地下室で迎えていた!

1945年8月15日、並木路子がいたのは、東京・有楽町にあった邦楽座の地下でした。

戦争末期の東京は空襲の危険が続き、人々にとって地下は身を守るための場所でもありました。

その場所で並木路子は、ラジオから流れる玉音放送を聴きました。

しかし、放送の音声は明瞭ではなく、何を伝えているのかすぐには理解できなかったとされています。

その後、憲兵から日本の敗戦を知らされ、並木路子は戦争が終わったことを知ったといいます。

現在から振り返れば「終戦の日」と一言で表現できますが、当時を生きていた人々にとっては、何が起きたのかさえ瞬時には分からないほどの出来事でした。

まさにこの瞬間が、後に「リンゴの唄」を歌うことになる並木路子の人生にとっても、大きな転換点になったのです。

並木路子は「リンゴの唄」をなぜ歌えなかった?

「リンゴの唄」は、現在では戦後復興を象徴する名曲として知られています。

ところが、終戦直後の並木路子が、すぐにこの歌を明るく歌っていたわけではありません。

戦争が終わったとはいえ、東京は焼け跡が広がり、人々の生活も極めて厳しい状態でした。

家族や友人を失った人も多く、街には戦争の傷跡が残されていました。

そんな状況で、明るく軽快な「リンゴの唄」を歌うことには、並木路子自身にも複雑な思いがあったと考えられます。

「リンゴの唄」は、戦後に人々へ希望を届けた歌として広く知られるようになりますが、その明るさの裏側には、戦争を終えたばかりの歌手が抱えていた戸惑いや悲しみがありました。

だからこそ、この歌は単なる流行歌ではなく、戦後日本の人々が「明日」を見つめるための歌になっていったのです。

並木路子の「リンゴの唄」は戦後復興の歌になった!

「リンゴの唄」は、戦後の日本人に大きな希望を与えた歌として知られています。

BSテレ東も、同曲について「戦後、日本人に希望を与えた」並木路子の代表曲として紹介しています。

作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正です。

並木路子は霧島昇とともにこの曲を歌い、焼け跡から立ち上がろうとする日本人の心に、明るいメロディーを届けました。

興味深いのは、「リンゴの唄」が最初から並木路子だけの歌として存在したわけではないことです。

BSテレ東の番組でも、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」から、霧島昇との貴重なデュエット映像が紹介されています。

「リンゴの唄」は発売当初、並木路子と霧島昇によるデュエットでしたが、その後、並木路子のソロ盤も発売されました。

終戦の日、地下室で敗戦を知らされたまだ無名だった一人の女性歌手が、その後、「戦後の希望」を象徴する歌を歌い、日本中を席巻することになったのです。

「玉音放送を聴いた日」と「リンゴの唄を歌った日」の間には、戦争から平和へと向かう日本の大きな歴史の変化がありました。

まとめ

  • 並木路子は1945年8月15日、東京・有楽町の邦楽座の地下で玉音放送を聴きました。
  • 玉音放送は地下では聞き取りにくく、その場ですぐに敗戦を理解できたわけではありませんでした。
  • 終戦直後は戦争の傷跡が残り、並木路子にとって「リンゴの唄」を明るく歌うことは簡単ではありませんでした。
  • その後、「リンゴの唄」は戦後日本に希望を与えた象徴的な歌として広く知られるようになりました。
  • 地下室で玉音放送を聴いた並木路子が、やがて「リンゴの唄」を歌う――そこには、戦争から復興へ向かった日本の姿そのものが重なっています。

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