二葉あき子さんが、筆者の父の入居する老人施設を訪れた日。
それは決して予定された出来事ではなく、静かに、しかし必然のように訪れた瞬間でした。
きっかけは、若き青年・山根徹さんとの出会いと、テレビ取材の“偶然”でした。
そしてその背景には、二葉さん自身の人生と、特攻隊員、そして広島への深い想いがありました。
今回は、その慰問の理由に迫ります。
二葉あき子の広島での晩年に抱えていた想いとは?

広島へ帰郷した二葉さんは、静かな生活を送りながらも、人とのつながりを大切にしていました。
戦中・戦後を歌で支え、多くの人の心に寄り添ってきた彼女にとって、 「誰かのために歌う」という行為は、晩年になっても変わらない生き方そのものでした。
事実、ご自宅でも訪問者が求めれば、歌をアカペラで口ずさみ、ダンスも披露され、往年の貫禄を見せつける場面がありました。
穏やかな中にも歌心を秘めた歌姫の貫禄はなくなることはありませんでした。
二葉あき子と青年・山根徹氏との出会いがもたらしたものとは?

山根さんは、老人施設でSPレコードの音源の紹介や当時の流行歌を歌う活動を続ける若き青年でした。
その純粋さと情熱は、二葉さんと筆者の心に強く響きました。
テレビ取材の日、筆者が二葉家に立ち会ったことで、三者は自然と交流を深めていきます。
この出会いこそが、筆者の父の施設を訪れる流れを生み出したのです。
山根さんがテレビの取材で二葉さんのご自宅を訪問されて以来、三者はともに心を通わせ、時代を映す昭和歌謡の魂を共有し、広島での慰問活動への準備が始まったわけです。
二葉あき子が筆者の父を慰問した本当の理由とは?

筆者の父は17歳で特攻に志願しながらも、ほどなく終戦を迎え、無事生還を果たしました。
いうまでもなく、終戦が遅れていれば、今の私は存在しておりません。
父は戦中に二葉さんの吹込みでヒットした「めんこい仔馬」や「高原の月」が大のお気に入りでした。
二葉さんと出会った当時、かつて特攻に志願し、終戦で生還した父は脳梗塞で半身不随となり、老人養護施設に入居していました。
そのことをお伝えし、「是非、慰問していただけないでしょうか」と二葉さんに問いかけると、「いいわよ。私も特攻隊員の方の前で歌ったことがあるのよ」と快くお引き受けくださったのです。
自伝に書かれているように、浜松の陸軍航空隊基地にて特攻隊員の前で「荒城の月」を歌い、涙ながらに見送られたご自身の体験が重なったのかもしれません。
そしてこれが、二葉あき子さんの最後のステージへとつながっていったわけです。
そこには、同じ時代を生き抜いた者への共感と、広島への深い愛情がありました。
二葉あき子は原爆の生き証人!特攻から生還した父を迎え入れた祖母の思い出とは?

筆者が中学生の頃、祖母と父親の三人でテレビの懐メロ番組を見ていると、二葉あき子さんが原爆の生き証人として紹介され、『フランチェスカの鐘』を歌われていました。
その時、祖母は特別攻撃隊に志願した息子(筆者の父親)が終戦で帰ってきた時の思い出を語り始めまたのです。
呉駅で二度と帰ることのない、17歳の息子の出征を見送った祖母のもとに、突然、終戦で生還した息子が現れました。
その時、祖母は駆け寄り、渾身の力で抱き寄せようとしたところ、息子は敗戦でバツが悪かったのか、その手を振りほどき、「早う飯を作ってくれや!」と言ったそうです。
「よし、わかった!」と言って、天にも昇る思いで台所に入り、泣きながら料理をこしらえたということでした。
その思い出を聞いた父親が突然、肩を震わせてしゃくりあげるように泣き始め、中学生の筆者は初めて見る父の泣く姿に驚くと共に、訳が分からず、ただ動揺してその様子を見伺っていました。
やがて、成長するにしたがい、当時を振り返り、父親の心の動きを読み取ることができるようになると、思い出すたびに、胸が熱くなります。
二葉さんがテレビの懐メロ番組で『フランチェスカの鐘』を歌った当時、父は50代前半でした。
中学生の息子(筆者)を前に、17歳で特攻に志願し、無事生還した終戦当時の自分を振り返り、迎え入れた母親の心情や、生き永らえたことへの思いに心を寄せると、号泣する理由が分かるまでに時間はかかりませんでした。
『歌は世につれ、世は歌につれ』という言葉はもう聞かれなくなりましたが、正にそれを象徴する出来事だったのではないかと思います。
以来、筆者の私は激動の時代を映す流行歌に心を強く引き寄せられるようになりました。
二葉あき子さんも白マフラーを巻いたあどけない顔の特攻隊員の前で「荒城の月」を歌い、その後、黙礼し、出撃する彼らを静かに見送った経験から、終戦で無事生還した筆者の父と、死出の旅に向かった彼らへの思いや願いを重ねられたのだと思います。
二葉あき子の最後のステージの様子と筆者の父を見舞った熱き心配り!

施設での慰問当日、二葉さんは堂々と構えられ、現役さながらの貫禄で、ゆっくりと「めんこい仔馬」歌い始められ、次いで「さよならルンバ」のダンスを披露されました。
その落ち着いた歌声と立ち振る舞いは、歌手としてのゆらぎない魂を彷彿とさせ、場の空気を一変させました。
車椅子でその様子を見届けた 父は、その貫禄ある歌声を静かに受け止めていました。
その後、二葉さんは父の部屋に個別に見舞いに来られ、「息子さん(筆者)にはお世話になっています」とお世辞ながらも嬉しいお言葉を投げかけてくださいました。
戦前からの大スターの訪問に父も言葉を失い、大変な感激と余韻に浸っておりました。
翌年、父は大きな思い出を胸に意識を失い、その2年後にこの世を去りましたが、二人で撮影した写真は今でも宝物として大切に保管しています。
まとめ
・筆者の父親の施設慰問の背景には、二葉さんの広島への想いと人への優しさがありました
・山根徹さんとの出会いは、筆者の父親の施設慰問への流れを生んだ重要な出来事でした
・筆者の父に届いた歌声と見舞いは、二葉さんの思いやりと人生の集大成ともいえる瞬間でした
・偶然の積み重ねが、深い感動と物語を生み出しました
前回の記事はこちら↓

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