昭和歌謡の黄金期を支えた名歌手・二葉あき子さん。
その柔らかで澄んだ歌声からは想像できないほど、若き日の彼女は 東京音楽学校(現・東京藝大)で厳しい上下関係の中を必死に歩んでいたことをご存じでしょうか。
今回は、筆者の父への慰問をきっかけに始まった交流から伺った、二葉さんが語る“藤山一郎の存在感”に迫ります。
二葉あき子が語った藤山一郎はこわかった理由とは?

二葉あき子さんは、筆者の父の入居施設に慰問に来てくださった後も、ご家族を通じて何度も交流の機会をいただきました。
ご自宅に伺うと、本人やご家族から当時の貴重なお話を伺うことができました。
その中で特に印象的だったのが、「藤山一郎さんは上級生で、こわかったのよ」という率直な言葉です。
当時、二葉さんは東京音楽学校の師範科に在籍し、1934(昭和9)年からコロムビアで範唱レコードを吹き込むほどの実力者でした。
一方、藤山一郎(増永丈夫)さんは声楽科を首席で卒業後、研究科に進み、すでに『丘をえて』『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』などのヒットで全国的なスターでした。
つまり、校内に“スターがいる”という特別な空気があったのです。
若い二葉さんが畏怖の念を抱くのは当然で、当時の音楽学校の厳格な上下関係もその感覚を強めていたのでしょう。
二葉あき子が憧れた流行歌の世界への転機とは?

二葉さんは、もともとご両親から音楽の教員になることを条件に東京音楽学校の受験を許されました。
師範科に進んだのもそのためです。
しかし、在学中に藤山一郎さんの流行歌『僕の青春(はる)』を聴き、「私もあんなになりたいわ」と強く心を動かされたと語っておられました。
つまり、二葉さんが流行歌手の道を選んだ背景には、藤山一郎という存在が大きな刺激となっていたのです。
その後、藤山一郎さんの後を追うかのように、流行歌手としてデビューした二葉さんは『古き花園』『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』『水色のワルツ』など数々の名曲を世に送り出し、昭和歌謡史に欠かせない存在となりました。
二葉あき子が見た官立派閥と藤山一郎の一言とは?

流行歌手としてデビューした後、二葉さんは藤山一郎さんと同じステージに立つ機会が増えました。
その際、藤山さんからよく「官立(国立)はこっち!」と声をかけられ、急いでそばに駆け寄ったと話しておられました。
この一言には、当時の流行歌手の間に存在した“出身校の派閥”が色濃く表れています。
官立の音楽学校(東京音楽学校)と私立の音楽学校では、舞台上でも自然とグループが分かれていたというのです。
さらに、二葉さんの全集を手がけた日本コロンビア文芸部の清水英雄さんによれば、入社当時、二葉さんは“雲の上の存在”であり、担当者は全員が新制・東京藝大の出身だったとのこと。
ここにも、旧制・東京音楽学校~新制・東京藝大のネットワークが業界に強く影響していた事実が見て取れます。
ご自宅のリビングには、紫綬褒章と勲四等瑞宝章の記章が丁寧に保管されており、その功績の大きさを静かに物語っていました。
まとめ
・二葉あき子さんは藤山一郎さんを「こわかった」と語るほど強い存在感を感じていました
・藤山さんの活躍が、二葉さんが流行歌手を志す大きな転機となりました
・官立(国立)・私立の派閥が流行歌手の世界にも存在し、藤山さんの一言が象徴的でした
・二葉さんのご自宅には栄典の記章が保管され、昭和歌謡史に残る功績を示していました
前回の記事はこちら↓
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