二葉あき子さんが、筆者の父の入居する老人施設を訪れた日。
それは決して予定された出来事ではなく、静かに、しかし必然のように訪れた瞬間でした。
きっかけは、若き青年・山根徹さんとの出会いと、テレビ取材の“偶然”でした。
本記事では、二葉あき子さんが筆者の父を慰問した背景として、広島での晩年の想い、特攻隊員との戦中体験、そして若き山根徹氏との出会いがどのようにつながったのかを、実体験とともに詳しく紹介します。
二葉あき子の広島での晩年!抱えていた想いとは?

二葉あき子さん(2003年頃)
広島へ帰郷した二葉さんは、静かな生活を送りながらも、人とのつながりを大切にしていました。
戦中・戦後を歌で支え、多くの人の心に寄り添ってきた彼女にとって、 「誰かのために歌う」という行為は、晩年になっても変わらない生き方そのものでした。
事実、ご自宅でも訪問者が求めれば、歌をアカペラで口ずさみ、ダンスも披露され、往年の貫禄を見せつける場面がありました。
穏やかな中にも歌心を秘めた歌姫の貫禄はなくなることはありませんでした。
二葉あき子と青年・山根徹氏との出会い!慰問につながったテレビ取材とは?

山根徹さんは、自身が所有するSPレコードの音源を紹介したり、当時の流行歌を歌ったりしながら、老人施設で慰問活動を行っていた若き青年でした。
その折り目正しく朗々とした歌声、純粋な心と情熱は、二葉さんと筆者の心に強く響きました。
テレビ取材の日、筆者が二葉家に立ち会ったことで、三者は自然と交流を深めていきます。
この出会いこそが、筆者の父の施設を訪れる流れを生み出したのです。
山根さんはテレビの取材で二葉さんのご自宅を訪問し、リビングで会話をされ、共に歌を歌われました。
筆者の私もその場に立ち会い、ことの成り行きをしっかりと見つめておりました。
以来、三者はともに心を通わせ、時代を映す昭和歌謡の魂を共有し、広島での慰問活動への準備が始まったわけです。
二葉あき子が筆者の父を慰問した理由とは?特攻体験と歌手人生の交差点

筆者の父は17歳で特攻に志願しながらも、ほどなく終戦を迎え、無事生還を果たしました。
いうまでもなく、終戦が遅れていれば、今の私は存在しておりません。
父は戦中に二葉さんの吹込みでヒットした「めんこい仔馬」や「高原の月」が大のお気に入りでした。
二葉さんと出会った当時、かつて特攻に志願し、終戦で生還した父は脳梗塞で半身不随となり、老人養護施設に入居していました。
そのことをお伝えし、「是非、慰問していただけないでしょうか」と二葉さんに問いかけると、「いいわよ。私も特攻隊員の方の前で歌ったことがあるのよ」と快くお引き受けくださったのです。
自伝に書かれているように、浜松の陸軍航空隊基地にて特攻隊員の前で「荒城の月」を歌い、涙ながらに見送られたご自身の体験が重なったのかもしれません。
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そしてこれが、二葉あき子さんの最後のステージへとつながっていったわけです。
そこには、同じ時代を生き抜いた者への共感と、広島への深い愛情がありました。
二葉あき子は原爆の生き証人!特攻から生還した父を迎え入れた祖母の思い出とは?

筆者が中学生の頃、祖母と父親の三人でテレビの懐メロ番組を見ていると、二葉あき子さんが原爆の生き証人として紹介され、『フランチェスカの鐘』を原爆犠牲者への鎮魂歌として歌われていました。
その時、祖母は特別攻撃隊に志願した息子(筆者の父親)が終戦で帰ってきた時の思い出を語り始めたのです。
二度と帰ることのない、17歳の息子の出征を呉駅で見送った祖母のもとに、突然、終戦で生還した息子が現れました。
その時、祖母(当時39歳)は「廣(ひろ)っちゃん‼」と駆け寄り、渾身の力で抱き寄せようとしたところ、息子は敗戦でバツが悪かったのか、その手を振りほどき、「早う飯を作ってくれや!」と言ったそうです。
「よし、わかった!」と言って、天にも昇る思いで台所に入り、泣きながら料理をこしらえたということでした。
その思い出を聞いた父親が突然、肩を大きく震わせ、しゃくりあげて泣き始めたのです。
中学生の筆者は初めて見る父の泣く姿に驚くと共に、訳が分からず、ただ動揺してその様子をうかがっていました。
やがて、成長するにしたがい、当時を振り返り、父親の心の動きを読み取ることができるようになると、思い出すたびに、目頭が熱くなります。
二葉さんがテレビの懐メロ番組で『フランチェスカの鐘』を歌った当時、父は50代前半でした。
中学生の息子(筆者)を前に、17歳で特攻に志願し、無事生還した終戦当時の自分を振り返り、迎え入れた母親の心情や、生き永らえたことへの思いに心を寄せると、号泣する理由が分かるまでに時間はかかりませんでした。
『歌は世につれ、世は歌につれ』という言葉はもう聞かれなくなりましたが、正にそれを象徴する出来事だったのではないかと思います。
以来、筆者の私は激動の時代を映す流行歌に心を強く引き寄せられるようになりました。
二葉あき子さんも白マフラーを巻いたあどけない顔の特攻隊員の前で「荒城の月」を歌われ、その後、目の前で黙礼し出撃する彼らを静かに見送った経験から、終戦で無事生還した筆者の父と、従容と死出の旅に向かった彼らへの思いや願いが重ったのだと思います。
二葉あき子の最後のステージの様子と筆者の父を見舞った熱き心配り!

戦中の記憶が重なった瞬間でした
施設での慰問当日、二葉さんは堂々と構えられ、現役さながらの貫禄で、ゆっくりと「めんこい仔馬」歌い始められ、次いで「さよならルンバ」のダンスを披露されました。
その落ち着いた歌声と立ち振る舞いは、大歌手としてのゆるぎない魂を見せつけ、場の空気を一変させました。
車椅子で会場に入った父は、貫禄あるその姿と歌声を静かに受け止めていました。
その後、二葉さんは父の部屋に個別に見舞いに来られ、「息子さん(筆者)にはお世話になっています」とお世辞ながらも嬉しいお言葉を投げかけてくださいました。
戦前からの大スターの訪問に父も言葉を失い、大変な感激と余韻に浸っておりました。
翌年、父は大きな思い出を胸に意識を失い、その2年後にかつての先輩隊員と同じく帰らぬ人となりましたが、二人で撮影した写真は今でも宝物として大切に保管しています。
これらの出来事は全く偶然の積み重ねだと思われますが、実は二葉さん、山根さん、筆者にとり、必然的な流れであり、深い感動と次世代へと受け継がれていく一篇の物語を生み出しました。
まとめ
・筆者の父親の施設慰問の背景には、二葉さんの特攻隊員と広島への想い、そして人への優しさがありました
・山根徹さんとの出会いは、筆者の父親の施設慰問への流れを生んだ重要な出来事でした
・筆者の父に届いた歌声と見舞いは、二葉さんの思いやりと人生の集大成ともいえる瞬間でした
・偶然の積み重ねは実は必然であり、深い感動と次世代へと受け継がれていく一篇の物語を生み出しました
前回の記事はこちら↓

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