国民栄誉賞を受賞した歌手・藤山一郎は、昭和14年、古賀政男とともに古巣のコロムビアへ復帰しました。
その後、「上海夜曲」「懐かしのボレロ」など数々のヒット曲を世に送り出します。
しかし一方で、戦争の激化とともに藤山一郎が歌う曲にも大きな変化が表れていきました。
その一つが、ノモンハン事件を題材にした戦時歌謡「空の勇士」です。
ところが、この勇ましい軍歌を後年、藤山一郎は涙をこらえるようにして歌っていたのです。
藤山一郎が歌った「空の勇士」とは?戦時歌謡に込められた時代背景!
第11弾画像2.jpg)
昭和14年、藤山一郎は古賀政男とともにコロムビアへ復帰し、「上海夜曲」「懐かしのボレロ」などのヒットを飛ばしていました。
しかし、その一方で、日中戦争の長期化に伴い、歌謡曲の題材にも戦争色が強くなっていきます。
「忠烈大和魂」「国家総動員」「英霊賛歌」などに続き、登場したのが「空の勇士」でした。
この曲は、昭和14年夏に起きたノモンハン事件と、その航空戦で戦った陸軍航空部隊を題材とした作品です。
読売新聞社が陸軍省の後援を受けて歌詞を公募し、その選定には詩人の西条八十と北原白秋が関わったとされています。
当時は戦争が次第に泥沼化し、戦死者の遺骨が帰ってくることも珍しくなくなっていました。
そのため、戦時歌謡にも単純な「勝利」を強調するだけではなく、激戦や犠牲を感じさせる表現が目立つようになっていったのです。
藤山一郎も歌った「空の勇士」!「死ぬる」が「死ぬぞ」に変わった理由とは?

「空の勇士」の歌詞で特に興味深いのが、冒頭の一節です。
「恩賜の煙草をいただいて 明日は死ぬぞと決めた夜は――」
現在知られている歌詞では「死ぬぞ」となっていますが、もともとは「死ぬる」という表現だったと伝えられています。
ところが、この「死ぬる」という言葉に当局からクレームが入り、標準語的な「死ぬぞ」に修正されたとされています。
これに強く反発したと伝えられているのが、選定委員を務めた北原白秋です。
九州出身の白秋にとって、「死ぬる」という表現には、単なる標準語では表せない土地の言葉らしさ、戦地に赴く兵士の生々しい感情が感じられたのでしょう。
しかし、その主張は受け入れられず、白秋はこれを機に軍歌の選定委員を辞したという逸話が残っています。
この「死ぬる」という言葉には、単に古い言い回しという以上の意味があります。
明日は死ぬかもしれないという兵士の覚悟を、どこか静かに、そして生々しく伝えているからです。
藤山一郎が涙をこらえて歌った「空の勇士」!戦争の悲惨さを後世に伝えた歌声
第11弾画像4.jpg)
「空の勇士」は本来、戦意高揚を目的とした勇ましい戦時歌謡でした。
しかし、後年に藤山一郎がこの曲を歌った映像を見ると、そこには意外な姿が映し出されています。
昭和40年代後半、東京12チャンネルの『なつかしの歌声』に出演した藤山一郎は、ある時「空の勇士」を歌いました。
その歌唱で特に印象的なのが、涙を懸命にこらえているように見える藤山一郎の表情です。
若き日に戦時歌謡を歌った藤山一郎にとって、この曲は単なる昔の軍歌ではなかったのかもしれません。
そこには、戦争を経験した時代の記憶や、戦地へ向かった人々、そして帰らぬ人となった多くの人々への思いが重なっていたとも考えられます。
歌詞には「明日は死ぬぞ」と決意する兵士が登場します。
そして、その兵士が見上げる夜空には、敵空を睨んだ先に星が二つ三つ瞬いているのです。
この星々は先に散華した同胞が放つ尊い光だったのかもしれません。
戦場では敵と味方に分かれていても、見上げる空そのものには敵も味方もありません。
この美しい情景が、「空の勇士」という歌に単なる勇ましさだけではない、深い哀しみを与えているようにも感じられます。
藤山一郎の涙をこらえるような歌唱は、こうした歌詞の奥にある戦争の悲惨さを、後世に伝えるものだったのではないでしょうか。
まとめ
- 「空の勇士」は昭和14年のノモンハン事件を題材にした戦時歌謡です。
- 歌詞の「死ぬる」が「死ぬぞ」に変更されたことには、北原白秋が強く反発したという逸話が残っています。
- 「死ぬる」という言葉には、兵士の覚悟や土地の言葉らしい生々しさが込められていたと考えられます。
- 後年、藤山一郎が「なつかしの歌声」で歌った際には、涙をこらえるような姿が強く印象に残ります。
- 勇ましい軍歌だった「空の勇士」は、藤山一郎の歌声を通じて、戦争の悲惨さや失われた命を考えさせる歌としても受け止められます。
▼前回の記事は以下↓をご覧ください。
第10弾画像1アイキャッチ(差し替え).jpg)
第11弾画像1アイキャッチ.jpg)
コメント