1945年8月6日午前8時15分──広島の空が白く裂けた瞬間、ひとつの劇団の運命も同時に崩れ落ちました。
移動演劇「桜隊」は、戦時下でも舞台を届け続けた芸術家集団。
その中心にいたのが園井恵子です。
宝塚から新劇へ、そして映画へと才能を広げた彼女は、広島で原爆投下に遭遇します。
奇跡的に生き延びたものの、放射線障害が静かに体を蝕んでいきました。
本記事では、園井恵子が広島で被爆した“あの日”と、桜隊に起きた悲劇の全貌を追います。
園井恵子が広島へ向かった理由──桜隊の疎開決定と不安の影!
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1945年、東京は空襲が激化し、劇場は次々と焼け落ちていました。
苦楽座のメンバーだった園井恵子は、地方慰問を目的とした新劇団「桜隊」の一員として活動していました。
桜隊は全国巡演を続けていましたが、東京大空襲を受け、日本移動演劇連盟は各劇団を地方へ疎開させる方針を決定します。
桜隊の疎開先に選ばれたのは、広島市でした。
しかし広島は軍都でありながら空襲が少なく、逆に「危険ではないか」と隊員たちは不安を抱いていました。
園井自身も、後援者への手紙で広島行きをためらった心情を吐露しています。
それでも彼女は、隊長の永田靖や丸山定夫の説得を受け、「選ばれた人は最後までやめてはいけない」という言葉を胸に広島行きを決断します。
桜隊は6月22日に広島へ到着し、堀川町の事務所を拠点に活動を開始。
山陰地方への巡演を終えた後、広島へ戻ったのが、運命の8月初旬でした。
園井恵子が広島で被爆──爆心地から750メートルの衝撃!
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1945年8月6日午前8時15分。
アメリカ軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島上空で原子爆弾を投下しました。
その瞬間、桜隊の事務所は爆心地からわずか 約750メートル の位置にありました。
園井恵子は、神戸の後援者・中井家から持参した食べ物を皆で分けようと、盆を手に廊下を歩いていたところでした。
突然の閃光と爆風で、園井は廊下から庭へ吹き飛ばされ、気を失います。
しかしすぐに意識を取り戻し、倒壊した壁の下から這い出しました。
近くには高山象三が倒れており、園井は彼を助けながら避難を開始します。
園井は奇跡的に外傷がほとんどありませんでした。
しかし、事務所は完全に崩壊し、他の隊員5名はその場で命を落としました。
園井と高山は、炎と瓦礫の中を進み、約1km離れた比治山へ避難。
丸山定夫は途中で倒れ、救護所へ運ばれました。仲みどりは京橋川で救助されましたが、重症でした。
桜隊はこの瞬間、壊滅状態となったのです。
園井恵子の最期──放射線障害と21日間の闘いとは?
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比治山で一夜を過ごした園井と高山は、翌日海田町の知人宅へ移動し、鉄道の復旧を知って神戸へ戻りました。
中井家で再会した園井は、泥とすすにまみれ、片足に地下足袋、もう片足に男物の靴という姿でした。
「母さん、助かったのよ、助かったのよ」 と抱きついた園井の姿は、後援者の志づにとって忘れられない光景となりました。
しかし、放射線障害は静かに進行していました。
高山象三の看病を続けるうちに、園井自身も体調を崩し始めます。
- 8月18日:髪が抜け始める
- 8月19日:高熱、皮下出血、下血
- 8月20日:歩行不能
- 8月21日:意識が薄れ、最期の言葉を残す
内海明子が氷で冷やしたガーゼを顔に当てたとき、「あー、気持ちいいわ」と呟いたのが園井の最後の言葉でした。
その日の夕刻、園井恵子は32歳で息を引き取りました。
桜隊で被爆した9名は、全員が1ヶ月以内に亡くなりました。
園井の遺体は翌日荼毘に付され、岩手県盛岡市の恩流寺に葬られました。
のちに東京・五百羅漢寺と広島平和大通りに「桜隊原爆殉難碑」が建立され、彼女の名は今も刻まれています。
まとめ
- 桜隊は東京大空襲を受け、広島へ疎開することになりました。
- 園井恵子は不安を抱えつつも、劇団の仲間と共に広島へ向かいました。
- 原爆投下時、桜隊事務所は爆心地から約750メートルの位置にありました。
- 園井は奇跡的に外傷を免れましたが、放射線障害が進行し、8月21日に亡くなりました。
- 桜隊の被爆者9名は全員が1ヶ月以内に命を落とし、園井は“未完の大女優”として今も語り継がれています。
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