上原敏は、「妻恋道中」「流転」「裏町人生」などの大ヒット曲を世に送り出した、昭和を代表する流行歌手の一人です。
一方で、戦時下には中国大陸へ通算7回足を運び、将兵の前で歌う慰問活動にも力を注ぎました。
ところが1942年、人気歌手として知られていた上原敏に、思いもよらない召集令状が届きます。
しかも、その召集には「上原敏」と本名「松本力治」をめぐる手違いがあったとされます。
今回は、レジェンド歌手シリーズ特別編として、藤山一郎と同じく南方戦線に従軍するも、全く異なる運命をたどった一人の歌手の光と影の人生を追います。
特攻に志願し、終戦で生還した筆者の父も生前、たいへん思い入れのある歌手として語っていましたので、特別編として取り上げたいと思います。
上原敏は大ヒット歌手として人気を集めた!
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上原敏は1908年、秋田県大館町(現在の大館市)に生まれました。
本名は松本力治です。
専修大学を卒業後、会社員として働いていましたが、野球を通じてレコード会社関係者と縁ができ、1936年にポリドールから歌手としてデビューしました。
転機となったのが、1937年に発売された「妻恋道中」です。
発売されると25万枚を超える大ヒットとなり、上原敏は一躍人気流行歌手の仲間入りを果たしました。
その後も「流転」「裏町人生」「鴛鴦道中」などを次々とヒットさせ、1937年から1939年にかけて数多くの人気曲を送り出しています。
当時の上原敏は、単なる一発屋ではありませんでした。
股旅歌謡から戦時歌謡まで幅広い曲を歌い分け、昭和前期を代表する人気歌手の一人として確固たる地位を築いていたのです。
上原敏は中国戦線への慰問を重ねていた!
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人気歌手となった上原敏は、戦争が激しくなる中でも歌手として活動を続けました。
特に注目されるのが、戦地への慰問です。
1938年から1942年までの間に、上原敏は中国大陸を通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌ったとされています。
つまり、上原敏はすでに戦地慰問の実績を持つ歌手でした。
今回の召集令状が届いた際にも、その実績を考えれば「なぜ人気歌手の上原敏が召集されるのか」と疑問を持つ人がいても不思議ではありません。
しかし、上原敏本人は召集令状を前にしても、顔色を変えずに入営の準備を始めたと妻・澄子が証言しています。
そして秋田の部隊へ入営した上原敏を待っていたのは、さらに意外な展開でした。
上原敏への召集令状は手違いだった!
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入営後、上原敏の召集には重大な手違いがあったことが分かります。
評伝『流行歌手たちの戦争』では、秋田の役所が芸名の「上原敏」と本名の「松本力治」を同一人物として正しく把握できず、召集令状が発行されたという経緯が記されています。
つまり、上原敏は人気歌手としての立場から召集を免れる可能性があっただけでなく、そもそも召集そのものに誤りがあったとされるのです。
さらに入営後、上原敏が歌手であることを知る上官から、報道部の要請によって内地に残るよう勧められました。
人気歌手としての活動を続けながら、別の形で「奉公」する道も示されたわけです。
ところが、ここで上原敏は意外な決断をします。(続きは後編で)
まとめ
- 上原敏は「妻恋道中」「流転」「裏町人生」などをヒットさせた戦前の人気流行歌手です。
- 1938年から1942年までに中国大陸を7度訪れ、戦地慰問で将兵の前に立って歌っていました。
- 1942年、上原敏への召集令状が届きましたが、「上原敏」と本名「松本力治」をめぐる手違いがあったとされています。
- 入営後には内地に残るよう勧められましたが、上原敏はその優遇を受けず、自ら戦地へ向かう道を選びました。
- その後、上原敏は輜重兵としてニューギニア戦線へ赴きます。次回は、なぜ彼は内地に残る道を選ばず、南方の戦地へ向かったのかを追います。
▼次回の記事(後編)はこちら↓をご覧ください。
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