淡谷のり子の「別れのブルース」は本牧のブルースだった!なぜ改題された?

昭和歌謡史に燦然と輝く淡谷のり子さんの代表曲「別れのブルース」。

実はこの名曲には、あまり知られていない誕生秘話がありました。

現在では誰もが知る「別れのブルース」ですが、完成当初の題名はまったく違うものだったのです。

その名前は「本牧のブルース」。

なぜ題名は変更されたのでしょうか。

そして改題によって、この曲はどのような運命をたどったのでしょうか。

淡谷のり子さん自身の回想をもとに、その知られざるエピソードを紹介します。


目次

淡谷のり子の「別れのブルース」の原題とは?

昭和13年頃、淡谷のり子さんは自らの楽団を率いて活動していました。

その頃、作曲家の服部良一とコンビを組み、新しいブルース作品の制作に取り組んでいたといいます。

当初、楽曲の題名は「本牧のブルース」でした。

歌詞にはメリケン波止場が登場するなど港町の情景が描かれていましたが、そのメリケン波止場(※)は神戸にもあるため、両方に通用する題名はないものかと考えました。

そこで作曲家の服部良一氏と何度も話し合いながら検討を重ねた結果、より作品の雰囲気にふさわしい題名として「別れのブルース」という題名が生まれたのです。

淡谷さん自身も、この新しい題名には強い愛着を持っていました。

「本牧」という地名を前面に出すよりも、別れの哀愁や人生の機微を表現したタイトルの方が、楽曲の世界観を的確に伝えていたのです。

※メリケン波止場とは外国船が出入りする港のことで、英語の「American(アメリカン)」の発音が転じて「メリケン波止場」と呼ばれるようになったそうです。


淡谷のり子も驚いた「別れのブルース」の大ヒット!

「別れのブルース」が発売されると、淡谷のり子自身も予想しなかったほどの大反響を呼びました。

当時は日中戦争のさなかであり、軍歌が世の中を席巻していた時代です。

そのような環境の中で、恋や別れを歌ったブルースが大ヒットするとは誰も考えていませんでした。

ところが結果は正反対でした。

「別れのブルース」は国内で大ヒットとなり、さらに満洲の兵隊たちの間でも歌われるほど広く浸透したのです。

ラジオでは兵隊たちの合唱が紹介され、「露営の歌」などの軍歌と並んで親しまれました。

自伝によれば、戦地の兵士たちは勇ましい軍歌だけでなく、故郷や家族を思い出させる哀調のある歌にも強く心を動かされていたといいます。

戦時下であっても、人々は心のどこかで癒やしや安らぎを求めていたのでしょう。


淡谷のり子を悩ませたヒット曲の意外な裏側とは?

しかし、大ヒットは必ずしも淡谷のり子さんに大きな利益をもたらしませんでした。

「別れのブルース」が15万枚も売れたにもかかわらず、周囲から「儲かったでしょう」と言われるたびに違和感を覚えたそうです。

その理由は当時のレコード業界の契約にありました。

会社との契約では、印税ではなく録音時の吹込料という形態が一般的でした。

淡谷のり子さんはレコードがどれだけ売れても、売上に応じた利益を得られる仕組みにはなっていなかったのです。

さらに後になって契約内容を確認すると、専属料の中に印税相当額が含まれているという扱いだったことを知ります。

自分の代表曲が社会現象ともいえる成功を収めながら、その恩恵を十分に受けられなかったことは、淡谷のり子さんにとって大きな驚きでした。

名曲誕生の裏には、華やかな成功談だけではない苦労も隠されていたのです。


まとめ

  • 「別れのブルース」の原題は「本牧のブルース」でした。
  • 淡谷のり子さんと服部良一氏が検討を重ね、「別れのブルース」へ改題しました。
  • 新しい題名は楽曲の哀愁や世界観をより的確に表現していました。
  • 戦時下にもかかわらず大ヒットし、兵士たちの間でも愛唱されました。
  • 15万枚を超えるヒットとなりましたが、淡谷のり子さんが得た利益は限定的でした。
  • 「別れのブルース」は昭和歌謡史に残る名曲として現在も語り継がれています。

参考文献:「淡谷のり子 わが放浪記」

▼前回の記事(第6話)はこちら↓をご覧ください。

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