昭和を代表する歌手・二葉あき子さんは、「フランチェスカの鐘」や「夜のプラットホーム」など数々の名曲を世に送り出しました。
しかし、その華やかな歌手人生の裏側や、若き日の思い出、晩年の素顔についてはあまり知られていません。
筆者は、二葉あき子さんが歌手引退後に故郷・広島へ戻られてから、ご本人やご家族と家族ぐるみで交流させていただく機会に恵まれました。
その交流の中では、書籍やテレビでは知ることのできない貴重なお話を数多く伺いました。
本記事では、その中でも特に印象深かったエピソードをご紹介します。
二葉あき子さんの人柄や若き日の素顔を知ることで、名曲がさらに心に響くのではないでしょうか。
二葉あき子の若き日に影響を与えた母と学生時代の忘れ得ぬ思い出とは?

二葉あき子さんの人生を語るうえで欠かせない存在が、お母様です。
お母様は明治後期に県下最高峰といわれた県立高等女学校の出身で、教育熱心な女性でした。
娘を母校へ進学させるため、小学校を転校させるほど教育に情熱を注いでいたそうです。
さらに、二葉さんが歌手としてデビューした後もステージママとして活動を支え、その先見性と行動力は当時としては非常に先進的だったと、ご家族から伺いました。
また、広島県立広島高等女学校時代には、バレー部の顧問の先生に憧れていたという、少女らしい一面もあったそうです。
後に国民的歌手となる二葉さんにも、ごく普通の学生らしい青春の日々があったことがうかがえる、心温まるエピソードです。
二葉あき子と由利あけみの友情、そして教師時代の秘話!

(右上が二葉さん、左が由利さん)
県立三次高等女学校教員時代(右)
東京音楽学校(現・東京藝大)時代には、後に歌手となり、「長崎物語」のヒットで知られる由利あけみさん(旧姓・加藤梅子さん)と深い親交がありました。
二人は同じ広島県出身で、本名も「加藤」。
寮の部屋まで同室となり、「うめちゃん」「よっちゃん」と呼び合う仲だったそうです。
その後、二人はともにコロンビアレコードへ入り、1936年に流行歌手としてデビューしました。
まさに青春時代をともに歩んだ存在だったことが分かります。
しかし晩年、筆者が由利あけみさんについてお尋ねすると、二葉さんは静かに「分からない」と話されました。
その言葉からは、長い人生の歳月を感じさせるものがありました。
さらに、北海道テレビ放送(HTB)の特集「人生のプラットホーム」では、デビュー60周年記念コンサートの楽屋を訪れた教え子が、教師時代の思い出を語っています。
二葉先生は「恥ずかしいから、お目目をつぶってなさい」と生徒に目を閉じさせ、自ら歌を披露していたという微笑ましいエピソードが紹介されました。
一方で、ご本人は「ほっぽらかしてごめんなさいね」と、教職義務年限を終えて歌手の道へ進んだことを、生徒に対して申し訳なく思っていたそうです。
その誠実な人柄が伝わる印象的な場面でした。
二葉あき子が語った原爆体験と故郷・広島への深い思いとは?

歌手として第一線を退いた後も、二葉あき子さんの心には故郷・広島への深い思いがありました。
布野にあるお父様のご実家の敷地には、「フランチェスカの鐘」の歌碑が建立され、観光バスが立ち寄ることもあったそうです。
筆者も義理の妹さんやお孫さんのお計らいで、そのご実家に山根徹さんと共に宿泊させていただいたことがあります。
その際、原爆投下当時のお話を伺う機会がありました。
二葉さんは胸を強く打つしぐさを交えながら、「トンネルの中でドーンと胸を突かれたような衝撃だったわ」と、まるで昨日の出来事のように語ってくださいました。
その表情や身振りからは、戦争の記憶が決して色あせることなく心に刻まれていることが伝わり、筆者も言葉を失いました。
テレビや書籍だけでは知ることのできない、二葉あき子さんの素顔と人間味に触れた、忘れられないひとときでした。
まとめ
- 教育熱心で先見性のある母親が、二葉あき子さんの人生を大きく支えていました。
- 学生時代には憧れの先生や、由利あけみさんとの深い友情がありました。
- 教師時代の教え子との交流からは、二葉さんの温かな人柄が伝わってきます。
- 故郷・広島への思いと原爆体験は、生涯忘れることのできない記憶として残っていました。
- 筆者が家族ぐるみで交流したからこそ知ることができた数々の秘話は、二葉あき子さんの人間的な魅力をより深く感じさせてくれる貴重な証言です。
前回の記事は以下↓をご覧ください。


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