国民栄誉賞を受賞した昭和の大歌手・藤山一郎さん。
実は、その華々しい歌手人生のスタートには、意外なエピソードがありました。
歌手としての正式なデビュー作となるはずだったレコードが、発売直前に中止になったのです。
しかも、その原因は北太平洋横断飛行を目指した飛行機の事故でした。
ところが藤山さんは、発売中止を知って落胆するどころか、「ホッとした」と後に振り返っています。いったい、なぜなのでしょうか。
藤山一郎が歌手になる前に吹き込んだ幻のレコードとは?
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藤山一郎さんは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に進学する以前から、すでにレコード吹き込みを経験していました。
慶應幼稚舎4年生(10歳)の時、童謡歌手として吹き込みを行ったことは最初のブログで述べましたが、慶應普通部に通っていた頃、学校長の許可を得て、「幼稚舎の歌」と「普通部の歌」の2曲を日本コロムビアで吹き込んでいます。
ただし、これは学校関係の非売品で、報酬もありませんでした。
その後、東京音楽学校へ進学した藤山さんを待っていたのは、家の経済的な苦境でした。
父親が経営していた呉服店「近江屋」は、関東大震災による損失に加え、昭和恐慌の影響で経営が悪化していました。
そこで藤山さんは、学費を自分で稼ぎ、家計も少しでも助けようとアルバイトを始めたのです。
最初は写譜でしたが、より収入の良いレコード吹き込みへと移ります。
学校には内緒で約40曲を吹き込み、複数の芸名を使いながら、その収入を学費や家計の補助に充てていたとされています。
藤山一郎がその芸名を名乗った理由とは?
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そんな藤山さんに、ある日、コロンビアのレコーディングディレクター・加藤武二氏から、新聞社が企画するマーチの吹き込み話が舞い込みます。
当時、報知新聞社の吉原飛行士が北太平洋横断飛行を計画しており、その快挙を応援する歌を吹き込まないかという話でした。
収入になることを喜んだ藤山さんは、さっそく引き受けます。
ところが、吹き込みを終えたところで大きな問題に気づきました。
それは、レコードに印刷する歌手名です。
東京音楽学校には、「故なくして学生の校外での演奏を禁ず」という厳しい校則がありました。
本名の「増永丈夫」を使えば、学校に知られる可能性があります。
そこで考え抜いた末に思いついた名前が「藤山一郎」でした。
富士山は日本一の山。
その「富士」に友人の「藤」の字を当て、「藤山一郎」としたといわれています。
こうして、後に昭和を代表する大歌手となる「藤山一郎」という芸名が誕生しました。
藤山一郎のデビュー曲が発売中止!なぜ本人はホッとした?
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ところが、ここから思いもよらない展開になります。
歌手・藤山一郎の実質的なデビュー作となるはずだった曲は、「北太平洋横断飛行マーチ」でした。
会社側も発売を予定していましたが、肝心の北太平洋横断飛行が、テスト飛行中の事故によって中止となってしまいます。
そのため、レコードも発売直前になって中止を余儀なくされました。
普通なら、歌手としての記念すべきデビュー作が発売中止になれば、本人は大きく落胆するところでしょう。
しかし、藤山さんの反応は意外なものでした。
発売中止を知った藤山さんは、むしろ「ホッとした」と自伝で回想しています。
なぜなら、この時点で藤山さんには、歌手として華々しく世に出たいという強い願望があったわけではなかったからです。
あくまで目的は、苦境にあった家計を助けることでした。
しかも吹き込みのアルバイト料は、レコードの発売を待たず、吹き込みと同時に受け取っていたとされています。
つまり、レコードが発売されなくても収入はすでに得ていたのです。
むしろ発売されれば、学校に内緒で行っていたアルバイトが発覚する可能性があります。
そう考えると、藤山さんにとって発売中止は、「学校に知られる心配がなくなった」という安心感につながったのでしょう。
まとめ
- 藤山一郎さんの実質的なデビュー作は「北太平洋横断飛行マーチ」でした。
- レコードは発売直前、北太平洋横断飛行のテスト飛行事故を受けて発売中止となりました。
- この吹き込みをきっかけに、「藤山一郎」という芸名が誕生したとされています。
- 当時の藤山さんは歌手として成功することより、学費や家計を助けるための収入を必要としていました。
- 発売中止になっても吹き込み料は受け取っていたため、本人はむしろ学校にアルバイトが知られる心配がなくなり、ホッとしたと回想しています。
- 後に国民栄誉賞を受賞する大歌手の出発点には、「歌手になりたい」という夢より家族を助けたいという思いがあったのです。
前回の記事は以下↓をご覧ください。
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