昭和初期、日本は未曾有の経済危機に直面し、人々の暮らしは一気に不安定になりました。
そんな激動の時代に、後に国民的歌手となる藤山一郎さんは、家の没落と向き合いながら青春を過ごしています。
「大学は出たけれど」という流行語が象徴するように、学歴があっても職がない時代。
藤山一家は、莫大な借金を抱えながらも、家族全員で再起を図りました。 その姿は、令和を生きる私たちにも大きな示唆を与えてくれます。
藤山一郎と昭和恐慌!一家を襲った1億円の借金!
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藤山一郎さんが東京音楽学校に入学した1929年、日本は世界恐慌の直撃を受けました。
ニューヨーク株式市場の暴落は日本にも波及し、銀行の取り付け騒ぎが起こるなど、社会は混乱の渦中にありました。
その影響を大きく受けたのが、藤山家の家業である呉服店「近江屋」です。
関東大震災で自宅や不動産を失った損害に加え、昭和恐慌の煽りで経営は悪化。
結果として、当時の金額で3万8千円(現在の価値で約1億円)という巨額の借金を抱えることになりました。
裕福な商家から一転、莫大な負債を背負うことになった藤山一家。
しかし、ここから家族全員が力を合わせて再建に向かうドラマが始まります。
藤山一郎と「大学は出たけれど」──就職難のリアルとは?
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昭和恐慌期の日本では、学歴があっても職がない状況が深刻でした。
流行語となった「大学は出たけれど」は、まさに当時の若者の苦境を象徴しています。
実際、東京帝国大学の学生ですら就職率は55~75%程度。
旧制大学全体では30%前後という推計もあり、大学進学率が人口比で0.5~1%だった時代としては異常なほどの就職難でした。
藤山家でも、父親は代議士の縁故で報知新聞文芸部の嘱託に。
兄たちもそれぞれの縁故を頼り、シンガポールの呉服商や三井物産へ就職し、一家総出で借金返済に取り組む体制が整えられていきました。
学歴があっても職がない時代に、家族が互いを支え合いながら生き抜く姿は、現代の不安定な社会にも通じるものがあります。
藤山一郎の青春──学費を自力で稼ぎながら音楽の道へ
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莫大な借金を抱える中、藤山一郎さんは「自分だけのほほんとしてはいられない」と強く感じていたといいます。
父からは「学校だけは出て資格を得ておくべきだ」と励まされましたが、家族の苦労を思うと心は揺れ続けました。
そこで藤山さんは、在学中から自力で学費を稼ぐ方法を模索します。
コロンビアレコードのディレクター・加藤武二氏に相談し、写譜のアルバイトを開始。
さらに、そこからレコード吹き込みの仕事へと進み、音楽の世界で収入を得る道が開けていきました。
当時の藤山青年は、卒業後は小学校の唱歌の先生として複数校を掛け持ちし、生活費を稼ぐつもりだったといいます。
しかし、アルバイトを通じて音楽の才能が開花し、後に国民的歌手へと成長していくのです。
家の没落をきっかけに、藤山青年は「自分の力で生きる」覚悟を固めた──その姿は、令和の私たちにも響くメッセージとなっています。
まとめ
- 昭和恐慌の影響で藤山一家は現在換算で約1億円の借金を抱えたました
- 「大学は出たけれど」が流行語になるほど就職難が深刻でした
- 父と兄たちは縁故を頼りながら一家総出で借金返済に取り組みました
- 藤山一郎さんは在学中から写譜・吹き込みのアルバイトで学費を自力で稼ぎました
- 家の没落を前向きに捉え、音楽の道へ進んだ姿は現代にも通じる学びを与えてくれます
前回の記事は以下↓をご覧ください。
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